権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

大原社研で「権田保之助資料」を閲覧しました!

(長文のため、お時間無い方は赤字を拾い読みいただければと思います)

遂にこの日がやってきた。

 権田保之助の次男速雄氏が2012年に大原社研へ寄贈した「権田保之助資料」が漸く整備されて、2023年2月9日にそのデータが公開され、資料の閲覧が可能となったのだ。

 閲覧可能となった権田保之助資料は2000件を超える数で、まずは閲覧を希望する資料の番号と閲覧希望日を事前に大原社研へメールで伝える必要がある。
というのも、大原社研での資料閲覧は同時に2名しか閲覧できず、閲覧時間は朝10時~午後4時(うち11時30~12時30分は昼休み)のため、事前の予約が必要なのだ。
資料は閲覧希望順に1つずつ手渡されるため、閲覧にはそれなりの時間を要する。
 私は、54件の資料を閲覧希望順に一覧にして事前に伝え、2日間で閲覧を終えようと考えたが、2日間で閲覧できたのは半数に満たない24件の資料で時間切れとなった(汗)。
残りの資料については、日を改めて閲覧したいと考えている。

法政大学 大原社会問題研究所(大原社研)

さて、今回私が閲覧した資料は以下のとおり(閲覧順に記載)。

[閲覧した資料のタイトル]
1.内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画 妖雲散じて 全五巻(趣旨及梗概)
2.明治43年-大正4年を中心として 美術論集
3.大正9年・10年 社会論集
4.大正10年末より大正11年始めまで 社会時評
5.〔新聞の広告〕とメモ Ufa=Palast am Zoo. Das letzte Mann
6.〔映画鑑賞日記〕
7.京阪に於ける活動写真記事
8.大阪ニ於ル映画館ヲ中心トセル娯楽興行場之プログラム (第壱輯)
9.各地ニ於ル映画館ヲ中心トスル興行場之プログラム (第壱輯)
10.各地方に於ける活動写真記事
11.活動写真之興行 『東京』之部
12.浅草調査ニ於ル蒐集興行場プログラム及引札(附.大正10年4月 大阪道頓堀千日前ニ於ル蒐集)
13.東京市内ニ於ル活動写真興行団プログラム及ビ引札(第壱輯)
14.東京市内ニ於ル活動写真興行プログラム(第弐輯)
15.活動時報 活動写真展覧会號 第1巻第5号
16.増補再版 活動写真劇の創作と撮影法
17.活動寫眞展覧會記録
18.第一回活動寫眞説明者講習会講習録
19.[文部省主催説明者講習会関係書類]
20.[文部省主催活動寫眞展覧會関係書類]
21.〔マキノ教育映画連盟関係書類綴〕
22.マキノ教育映画連盟趣旨綱要
23.渡欧土産(未定稿)
24.大正十三年―大正十四年 欧米旅行 日誌 (其の一)

[閲覧した感想など]
●資料1は、内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画「妖雲散じて」は、権田保之助が脚色及び監督をした映画の趣旨及び概要が書かれた大正13年2月発行の24ページの小冊子である。権田保之助が監督をした映画が存在したとは驚きだ。機会があれば是非視聴したい!

●資料2,3,4は、権田保之助が雑誌に投稿した論文で、明治43年から大正4年雑誌「日本美術」などに投稿した美術論大正9年10年に雑誌「我等」などに投稿した社会論、大正10年末より大正11年始めに雑誌「大観」などに投稿した社会時評である。権田保之助の若き日の思想について知ることができる

●資料5は、ドイツ語で書かれた新聞広告の切り抜きと権田保之助の手書きメモである。カール・マイヤー脚本、F.W.ムルナウ監督、エミール・ヤニングス主演の1924年の映画「最後の男」に関するものらしい。1924年大正13年)は権田保之助が渡欧した年なのでドイツで購入した新聞だと考えられる。

●資料6は、昭和4年3月22日~7月2日まで書かれた権田保之助の「映画鑑賞日記」である。120ページあるノートで、見開き右側に鑑賞日記を書き、左側は空欄とし、映画のチラシやパンフレット類を貼付している。この日記は権田保之助が子息2人を連れて映画を観た時のプライベートの日記である。権田保之助がどんな映画を観てどう感じたのかを知ることができる貴重な資料である。当時の映画のチラシやパンフレット類も貴重な資料だ。
子息の権田速雄氏がこの映画鑑賞日記を書き写したものが私の手元にあるので、記載されている内容は既に知っていたが、子供たちと一緒に観た映画のチラシやパンフレットをそのまま大切に貼付した映画鑑賞日記を手にしてみると、権田保之助が家族と過ごしたひと時を大切にしている様子が感じられる。
権田保之助は昭和4年3月29日にシネマ・パレスで映画「カリガリ博士」を観ているが、それが活弁だったのかサイレントだったのか、ずっと気になっていた。映画鑑賞日記に貼付されたチラシを見ても、弁士のことは何も書かれていない。徳川夢声による活弁だと思っていたが、サイレント映画だったのだろうか。
カリガリ博士」のチラシには「独逸デクラ・ビオスコープ映画」と書かれている。デクラ・ビオスコープ社の筆頭重役エリヒ・ポマーはフリッツ・ラングに「カリガリ博士」を監督するよう指定したが、準備検討の途中でラングは連続映画「蜘蛛」を完成するよう命令され、ラングの後任はロベルト・ヴィーネ博士となり、ヴィーネは、ラングが計画したものと完全な調和を保ちながら、オリジナルストーリーの本質的な変更を提示した。オリジナル・ストーリーは真実の恐怖の報告であったが、ヴィーネのストーリーは、この報告を精神的に狂ったフランシスがでっちあげて物語った妄想に変形させている。(「カリガリからヒトラーへ」ジークフリート・クラカウアー)

 

 また、権田保之助は昭和4年4月9日に浅草松竹座で映画「メトロポリス」を観ている。チラシには解説・伴奏選曲者名の記載があるので活弁だったのだろうか。
メトロポリスは1927年にベルリンでドイツ国内上映版が上映され、その後短縮された輸出用プリントがアルゼンチンを除く海外で上映されたので、権田保之助が見たメトロポリスは短縮版だったのだろう。アルゼンチンでは1960年代終わり頃までオリジナルに近いものが上映されたようである。当時のアルゼンチン版フィルムが2008年に発見され、2001年の復元版にさらに25分の映像が追加された完全復元版が現在DVDで発売されている。

 

[映画チラシ、パンフの例]
 ・昭和4年 シネマパレスの映画チラシ「カリガリ博士
 ・昭和4年 浅草松竹座の映画パンフ「メトロポリス
 ・昭和4年 銀座松竹の映画チラシ「メトロポリス

 

●資料7、10、11は、活動写真に関する大正6年の新聞記事の切り抜き(スクラップブック)である。30ページ、50ページ、54ページの3冊の手作りのスクラップブックに所狭しと新聞記事が貼られている。当時の新聞が活動写真をどう伝えたか、権田保之助が当時見た活動写真に関する新聞情報の内容や数を知る上で貴重な資料だ。権田保之助の几帳面さが感じられる。

●資料8、9,12,13、14の資料は、大正9年から大正13年における東京、大阪、千葉、浅草などの映画館の多数のチラシ、パンフレット類である。当時の人気映画は何か、映画チラシの変遷(最初は小さな紙)、震災の映画が大正12年9月15日(震災の半月後)から上映されたことなどが分かる。画ファン、映画関係者にとって貴重な資料だ。

また、権田保之助は大正10年の浅草調査の際も映画チラシ類を集めていたことが分かる。権田保之助の映画ファンとしての一面が感じられる。

●資料15は、大正10年11月に発行された冊子「活動時報」である。日本初の活動写真展覧会が開催されることが紹介されている。活動写真展覧会協賛会役員の中に、文部事務官 乗杉嘉壽、文部省社会教育調査委員 菅原教造、権田保之助、橘高広、星野辰男などが記載されている。権田保之助は「民衆娯楽としての活動写真」という記事を文部省社会教育調査員として投稿している。

●資料16は、帰山教正の増補再版「活動写真劇の創作と撮影法」(大正10年発行)である。帰山教正は、日本最初の映画評論誌「キネマ・レコード」の創刊者であり、純映画劇運動を提唱し、映画での女優の起用などを行った人である。著書「活動写真劇の創作と撮影法」(大正6年7月発行)は映画人にとってバイブルである。
権田保之助は著書「活層写真の原理及び応用」を大正3年10月に発行している。この本は一般にはあまり知られていないようだが、早稲田大学名誉教授の岩本憲児(日本映画史、映画理論)やイエール大学教授のアーロン・ジェロー(日本映画史)は権田保之助の著書「活層写真の原理及び応用」を高く評価している。絶版となり、古書店で販売されているが高値なので、興味ある人は国会図書館などで閲覧されると良いと思う。権田保之助は映画に関する先駆的研究者の1人だと考える

権田保之助(1887年~1951年)と帰山教正(1893年~1964年)は交流があったことが、権田保之助の「浅草調査日誌」の以下の記載から分かる。

[権田保之助「浅草調査日誌」からの抜粋]
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大正10年(1921年)7月8日(金曜)曇
朝、帰山教正君来訪、新作映画脚本の下見を依頼された。宇野君と共に今日も小学校廻り、神田小学と冨士前小学校とを訪ねて承諾を得た。
午後、妻と大工とを伴って中野町本郷の地所を見に出かけた。
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「浅草調査日誌」の原本は「権田保之助資料」として大原社研で手に取って閲覧できる。
また、研究誌「権田保之助研究」創刊号(昭和57年11月発行)に「浅草調査日誌」の全文が掲載されている。研究誌「権田保之助研究」は古書店で販売されていて、国会図書館などでも閲覧できる。

●資料17、20の資料は、大正11年4月15日~4月28日の2週間開催された「活動寫眞展覧會」に関する記録、関係書類である。

●資料18、19は、大正10年(1921年)2月に行われた「第一回活動寫眞説明者講習会」の講習録、関係書類である。講習会は、中田俊造が開会の辞を述べ、続いて権田保之助の「活動写真劇の真美的観察」、星野辰男の「活動写真の技術的考察」、大島正徳の「国民道徳と現代思潮」、乗杉嘉壽の「社会教育と活動写真」、橘高広の「活動写真の取締について」、菅原教造の「説明者と講習」、乗杉嘉壽の閉会の辞という内容である。

●資料21、22は、マキノ教育映画に関する資料である。権田保之助は大正8年(1919年)頃、日本映画の父として知られる牧野省三が設立した教育映画の製作会社「ミカド商会」ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男とともに協力した。権田保之助がどのように関与したか分かる資料があるのではないかと期待したが、今のところ分かるものは見当たらない。

●資料23は、昭和62年8月19日に権田保之助の子息速雄氏が書き写し終えた原稿用紙135枚の権田保之助の未公表随筆「渡欧土産」(未定稿)である。権田保之助の書いた文字はとても読みづらいので、速雄氏が書き写して残してくれたのはとても有難い。冒頭に速雄氏から以下のメッセージが記載されている。

[未公表随筆「渡欧土産」(清書)での権田速雄氏からのメッセージ]
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・この「渡欧土産」を休み休み清書しだしてから1年近くが経ってしまった。
・この原稿は父(保之助)も書いてあるように、出版されず陽の目を見る事もなかった。父の著作集出版の時には諸般の事情で入れることができなかった。
・別の出版社が父の著作集再刊の意思を持った場合には、その中に是非入れたいと思っている。
・この他に私的な記録として「欧米旅行日誌」(ノート三冊)があり、また父より家族宛の書簡、母、知人等から父宛の書簡が残っている。
「欧米旅行日誌」を中心として、その中に書簡を挿入し、前記「渡欧土産」を付属しまとめ一本とすることも、父(保之助)の思想、心情を知る上で意義のある事ではないかと思う。
・しかし、整理、校正、「註」の作製等多大の労力を必要とする上、出版社の意向も期待出来そうもない。
・私家版として出版するのが妥当であろう。
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速雄氏は父保之助の書いた文字を何とか読むことができたが、読めない文字もあるようで、保之助の随筆の書き写しには相当苦労したものと思われる。

速雄氏が書き写した権田保之助の資料は他にも以下の資料がある。
速雄氏は後世に残したい資料を書き写したものと推察する。

[速雄氏が書き写した権田保之助の資料]
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・櫛田民蔵宛の書簡(明治40年3月30日~大正5年9月26日)
 *以下のサイトに権田保之助と櫛田民蔵の書簡のやり取りの一部を掲載
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/05/222937
 *櫛田民蔵から権田保之助宛の書簡は書籍「櫛田民蔵・日記と書簡」(社会主義協会出版局)に掲載
・映画鑑賞日記(昭和4年3月22日~7月2日)
 *以下のサイトに「映画鑑賞日記」全文を掲載
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/01/000031
・未公表随筆「渡欧土産」(未定稿)(昭和5年以降)

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●資料24は、大正13年大正14年に主に独逸ベルリンへ外遊した際の「欧米旅行日誌」全3冊のうちの冊目である。160ページの手帳に、1日1ページ程度、少ない時は半ページ、多い時は3ページ、その日の出来事などが書かれている。
「欧米旅行日誌」は全部で3冊あるが、残念ながら2冊目以降はまだ見ていない(泣)。

 

今回は資料閲覧の概要報告となったが、今後、閲覧した資料の深堀をしたいと考える。

以上です。