権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

映画に関する権田保之助のかかわり

 このブログで何度か、権田保之助と映画に関して記載しましたが、今回、全体像についてまとめてみました。

[概要]
 権田保之助は、ドイツ語学者、社会学者(娯楽研究者)ですが、1914年(大正3年)に「活動写真(映画)の原理及応用」(内田老鶴圃)を出版してから1940年代まで、いろいろなかたちで日本映画発展期において関わっています。著書「活動写真の原理及応用」の序文で「私は、もし現代人の生活から活動写真というものを取り除いたなら、その生活の内容は確かに或る欠損を来すことだろうとまでも考えて居るのです」「私は世の誤った活動写真の享楽的態度というものに反対しまして、これの矯正を希望すると同時に、活動写真の間違っている価値判断をも避けしめなくてはならないと思って居ます。活動写真の真価を計りまして、その誤らない本当の趣味を発揮させその本来の面目を示させる様に致しますことは、教育に携わる者は勿論、世の中の風教ということを心に留める人は言うまでもなく、政治に従事するものも、芸術に心を用いるものも忘れることの出来ない現代の共通問題であり、是非とも解かなくてはならない現代の共通義務では御座いませぬか」と述べています。

 日露戦争(1904~1905年)以後、活動写真は、そのニュース性から端を発し、動く写真の面白さ、表現の新しさが一般大衆に受け、活動常設館は不景気知らずの入場者の増加が続き、また増設が続いていました。特に1911年(明治44年)に輸入上映された「ジゴマ」を筆頭にその後続々と輸入された連続活劇物と称する探偵冒険映画の子供達に与えた影響は甚だ強烈で、「ジゴマごっこ」等の遊びが流行し、ひいてはこれを真似た少年犯罪までが新聞紙上を賑わすに至って、活動写真の教育に与える影響を重視し、世の識者は一斉に活動写真に対し避難指弾の論調をかかげ、大きな社会問題としてこれを取り上げ対策を考えようとする機運が盛り上がってきました。そのような活動写真隆盛の社会環境の中で「娯楽を味わう」ことの好きな権田保之助は一層「活動写真の研究」にのめり込んでいきました。民衆が好む活動写真とは一体どんな具合で作られ、映写され、また利用されるのであろうか。それと同時に受け手である民衆とは一体何者なのであろうか。そういった視点で「活動写真の原理及応用」が執筆されました。

 1917~1918年(大正6~7年)にかけて、帝国教育会からの委嘱により初めて娯楽調査を行うことになりました。この時期活動写真が児童に与えた影響は大きく、その是非が社会問題として取り上げられ、教育上極めて深刻な問題となっていたことが重要な背景をなしていました。権田保之助は活動写真に関する調査及び観察によって、活動写真の模倣による犯罪はわずか4人で、活動写真館に入るためのお金を得るために罪を犯したものは48人であることを明確にし、「少年犯罪の映写内容が直接に観衆に働きかけて、その暗示によって不良行為、犯罪行為が行われるものであるという今日の一般の考え方に対して、それは映画の直接的影響なるものは一般に考えられている程甚だしいものではない。活動写真の悪影響なるものは、これとは全然異なる原因から生じるものである。」としています。
 また、良映画を得るために検閲を厳重にすべきという考えに対して「検閲を厳重にすれば良映画が得られると考えることは、泥棒を捕まえれば善人が出ると考えることと全く同一の錯誤である」とし、「映画検閲の問題、悪映画の模倣防止よりも最も大切な事は、民衆をして呑気に活動写真位は観ることが出来るようにすることである。」と結論づけています。

(研究誌「権田保之助研究」、著書「民衆娯楽問題」より)

 

 権田保之助自身も映画を観ることが好きで、毎週火曜日を映画デーとして映画館へ足を運んでいました。活動や著書から、権田保之助の活動写真(映画)への「好き」が感じられます。好きこそものの上手なれです。

 

[活動写真に関する権田保之助の主な活動]
〇1912年(明治45年)活動写真(映画)の研究を始める。
〇1914年(大正3年)「活動写真の原理及応用」(内田老鶴圃)出版。活動写真の啓蒙活動。内容の大半は技術的解説で占められ、啓蒙的色彩の濃いものですが、最終章で「活動写真の哲学、活動写真の文明」という標題の下に哲学的、審美的要素の濃厚な文明史観、芸術論を展開して結んでいます。
〇1917年(大正6年東京市活動写真調査(帝国教育会)。
〇1919年頃(大正8年)日本映画の父として知られる牧野省三が設立した教育映画の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男とともに協力しました。
1920年大正9年)社会教育調査委員を嘱託。活動写真映画とその興行問題を中心として民衆娯楽の教育的利用対策の考究にあたりました。
1921年(大正10年)文部省より活動写真説明者講習会講師を嘱託。浅草公園、青年伝道館に於いて、1週間にわたって開催。活動弁士の向上をはかろうとしたものです。
1921年(大正10年)浅草調査(大原社研)。大正10年5~7月に行われた浅草の民衆娯楽(活動写真など)の実地調査と社会地図の作成。社会地図(複製)は江戸東京博物館に展示されています。
1921年(大正10年)「民衆娯楽問題」(同人社書店)出版。映画と教育の問題に興味を持つと同時に、浅草オペラなど浅草の民衆娯楽を著しました。
1924年大正13年)「映画新研究十講と俳優名鑑」(東京朝日新聞社大阪朝日新聞社)投稿。
〇1927年(昭和2年)文部省より教育映画調査を嘱託(~昭和18年4月)。
〇1928年(昭和3年)「映画検閲の問題」(法律春秋)、「活動写真法の制定へ」(法律春秋)投稿。
〇1930年(昭和5年)大原社研雑誌へ「教育映画運動と其社会的展開」投稿。
〇1930年(昭和5年)「映画百面鑑 独和対訳小品文庫4」(友朋堂)訳註。エミール・ヤ二ングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」、ぺーテル・グラスマン「映画と民衆」、クルト・ヴェッセ「映画の宣伝」他。
〇1931年(昭和6年)活映教育研究第1巻「教育活映の本質」(大阪毎日新聞社内全日本活映教育研究会)投稿。
〇1934年(昭和9年)大原社研調査室に於いて映画国策に関する調査を担当。大原社研雑誌へ「映画国策について」投稿。昭和10年「年少者の映画観覧状態概観」投稿。
〇1939年(昭和14年日本大学芸術科講師、「映画政策論」を講義。
〇1939年(昭和14年)雑誌「日本映画」へ「映画劇出生陣痛期」を寄稿。映画劇という言葉が使われる前は「活動写真劇」という言葉が使われていましたが、映画という言葉は大正の初め頃からチラホラ現れてはいるものの、その意味は極めて狭いもので、今日のような内容を包括したものではなかったようです。そして、映画とか映画劇とかと大っぴらに唱え出されるようになったのは大正11年頃、本当は震災後だと云っていいとのことです。
〇1939年(昭和14年)内閣より演劇、映画、音楽等改善委員会委員に任命。
〇1940年(昭和15年)雑誌「映画教育研究」(映画教育中央会)の特集「映画教育振興座談会」へ参加。
〇1941年(昭和16年)社団法人日本映画社より調査部を嘱託。
〇1941年(昭和16年)文部省より国民学校教科用 映画検定委員を嘱託。


[著書「活動写真の原理及応用に関して]
(「サイレントからトーキーへ」早稲田大学名誉教授。映画史・映画理論専攻。岩本憲児)
〇「活動写真の原理及応用」(大正3年出版)は、この時期の日本はむろんのこと、世界的にも珍しい映画研究書と思われる。第1章「活動写真の歴史」から始まって、第5章「活動写真の応用」に至る、技術的・実際的説明部分にも、映画百科的なパノラミックな視点があって、それも単なる知識の羅列に終わらない、映画を新しいメディアとして総合的にとらえようとする姿勢がうかがえる。

〇術語すら定まっていないので、権田保之助自身の命名と思えるいくつもの用語があって、映画史的にはなはだ興味深い。同書は、おそらくドイツ語文献を渉猟しながら、映画の歴史から説き起こし、当時の技術、運動の知覚、発展途上の技術と未来の映画、さまざまな領域への応用、美学、そして哲学と文明論にまで説きおよんでおり、その構成たるや、まさに「活動写真の世界」とでも呼べそうな幅の広さである。

〇もう1つ忘れてはならない重要な側面がある。それは啓蒙家である以前の、映画に対して自ら楽しく享受する享楽家としての側面であり、のちに、映画を中心的メディアとしてとらえながら、自然発生的・自然成長的・自律的な民衆娯楽全体を積極的に評価していく権田保之助の考えは、すでに「活動写真の原理及応用」の中にその萌芽を見ることができる。のちに長谷川如是閑が、映画を印刷術の発明にも匹敵する文化的産物と評価しながらも、結局「事相の再現」「再生産」「複製物」としてしかとらえなかった姿勢と比べるとき、権田保之助は映画を自律的にとらえようとしていた点で如是閑より進んでいた。

〇映画の形式上の特徴を分析しながら、映画美の探求を試みたことでも権田保之助は先駆的だった。
「活動写真と美」は、
 1.機械的特徴より生ずる美の種類
 2.経済的特徴より生ずる美の種類
 3.活動劇と舞台劇
 に分かれているが、この中では1.が最も重要であり、その特徴としては次の6点が挙がっている。
 a.場面狭小にして、しかもこれを拡大するを得ること。
  (細部が拡大されるため、観客は人物の表情に注目する。人物の意思とか感情とかに心を奪われるようになって、内容にのみ向かっていくようになる)
 b.光線の強烈なること。
  (刹那刹那に最も自分の注意を惹いた部分だけが印象に残る)
 c.平面なること。
  (平面を心の中で立体化する。活動劇に自己を盛るため、観客の主観的内容、主観的感情の美が生まれる)
 d.無色なること。
  (墨絵との類似。墨絵には奥に隠れている意味とか内容、力とか意志とかがある。活動劇の場合、動的・感傷的な内容がこれに代わって表われる)
 e.無音なること。
  (弁士がついていても画面とせりふの間には、ずれがあるので、ここに観客の自己がとびだし、主観的色彩が強まる)
 f.自然景の応用。
  (観客の住んでいる自然の一部としての背景)
 これらの6点は、18年後にルドルフ・アルンハイムが映画の芸術性を保証する形式の特徴として挙げた6点と似ている。

〇平面スクリーンを心の中で立体化するために、観客の主観的感情の美が生ずるという考えも、当時「写真・映画=非芸術論」の根拠となった「映像=客観性」という考えが大勢を占めていたことを思えば、権田保之助の「主観的感情美」論はすこぶる進歩的だったと言える。ドイツ出身の心理学者ヒューゴーミュンスターバーグが心理学の立場から、映画の成立根拠を主観的心理や錯覚に帰して詳細な映画芸術論をアメリカで展開するのは、権田保之助の著書より2年後である。

〇権田保之助の楽天的・積極的映画論は勇ましい言葉で結ばれる。曰く、美的概念の改造、生活価値の創作、新文明の誕生、と。言葉たらずであるとはいえ、権田保之助の野心的構想は時代から抜きん出ていたのではないだろうか。


[権田保之助の映画観について]
(「サイレントからトーキーへ」早稲田大学名誉教授。映画史・映画理論専攻。岩本憲児)
〇権田保之助の著作・エッセーから同氏の業績をいくつかまとめてみると、次の4点が浮かび上がってくる。
 1.映画全般におよぶ百科事典的啓蒙家
 2.上映や上演の形態、観客層の実態を数量的に調査した社会学上の先駆者
 3.自律的民衆娯楽の擁護者
 4.生活美化をめざした社会教育者
 これまでのところ、社会学の立場からも映画史の立場からも、第1点は見落とされてきたと言ってよいだろう。