権田保之助が中野の自宅で愛用していた長火鉢を昨日受け取りました。
この長火鉢は、保之助が亡くなった後も次男の速雄氏が大切に保管し、北鎌倉の自宅から熱海へ引っ越す時に手狭となった際は保之助の妻タンさんの親族である池村氏に譲り、その後、池村氏が大切に保管していたものです。
長火鉢の引き出しの箱は虫食い状態にありますが、火鉢本体、鉄瓶などはしっかりとしていて、今でも使えそうな感じがします。
池村氏は昭和21年に権田保之助の中野の自宅で生まれており、保之助、タンさんに会っていますが、保之助は昭和26年に亡くなったため、保之助のことは覚えていないようです。
タンさんのことは朧気ながら覚えているようで、この長火鉢に肘をついて座っているタンさんの面影が残っているそうです。
保之助の次男速雄氏は、父・保之助の回想録「父・権田保之助」の中で、この長火鉢について以下のように記載しています。
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父は酒が好きだった。それも日本酒を家で飲むことだ。毎晩、茶の間の食卓の横の長火鉢の鉄瓶に一合弱入る小型の徳利を入れ、自分でおかんを楽しみながらチビチビ時間をかけてやる。吾々は飯だけ食べて草々に退散する。何故ならば、話し相手がたまらないからだ。話が割合いくどいのが面白くない。自分で話題を出すことは殆どなく、息子、娘からの話を聞きたいらしく、それには息子共は困ってしまい、モゴモゴと何やらつまらない事をしゃべって、食事も早々に自分達の部屋に逃げて行く始末であった。
酒の肴は何でもよい。しかし、魚類が特に好きだった。勿論、酒の肴と言われるものは何でもよく、好き嫌いは絶対ない。特に母の故郷の名産である新島のクサヤはお気に入りだった。
塩辛をなめながら上機嫌で「母さん、今日は特にもう半分」と云って母に徳利を差し出すと、母は心得たもので「血圧に気を付けてくださいよ」と云いながら,一杯にして持ってくる。それをしおに吾々は退散することになる。
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