権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

ストップ・メイキング・センス

STOP MAKING SENSE(チラシ)

先日、40年ぶりにロックグループ トーキング・ヘッズの映画「ストップ・メイキング・センス」を映画館で観た。一場面一場面がとても懐かしかった。

STOP MAKING SENSE(40年前のチラシ)

前回は1985年に観ている。
そして1992年5月17日にNHKホールでデイヴィッド・バーンの日本公演を観ている。
おまけに映画「ストップ・メイキング・センス」のレーザーディスクを購入している。
当時はトーキング・ヘッズに夢中になっていたようだ。

STOP MAKING SENSE(レーザーディスク

ところが、肝心の「ストップ・メイキング・センス」の意味を未だに知らないことに気づいた(汗)。

 

映画の字幕では「意味をなさない」と訳されていたが、
映画パンフレットの解説では「道理にかなうことはやめろ」、「センスなんて関係ない」、「正気でいようとするのはやめろ」と解説者によってさまざまだ(苦笑)。
ちなみにGoogle翻訳すると「意味をなすのをやめなさい」と訳される。

いったいどれが正しいのか...

私が映画を観た感想では、
40年前に観たときは、何となく「頭で考えるな(体で感じろ)」といった感じで捉えたが、今回観たときは「道理にかなうことはやめろ」が一番近いように感じた。

米国に住んでいた経験のある知人に伺ってみたところ、「お行儀良くしていたら生まれないような音楽」といった程度の意味ではないか、とのことでトーキング・ヘッズがどういうグループでデイヴィッド・バーンがどういう人物かを理解した上でないと適切な翻訳はできないとのコメントがあった。

なるほど、
映画の字幕とパンフレットの解説が翻訳者によって異なるのは、翻訳が間違っているのではなく、翻訳者がそう捉えている、ということだ。

最近思うのだが、正解が1つだと決めつけてはいけないように思う。
いろいろな答えがあって良いのではないか。

いずれまた、この映画を観たときには、今とは異なる捉え方をするかも知れない。
だから面白いのだろう。

 

さて、大正時代に映画(活動写真)に魅了された権田保之助は、当時、映画をどう観たのか。
ヒントは、権田保之助がプライベートで書いた「映画鑑賞日記」にあるように思う。

「映画鑑賞日記」
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/01/000031

 

(おまけ)
以下のサイトの最後の方に「デイヴィッド・バーンからのメッセージ」として
「観客を力づけるのは「ことば」じゃない。ステージ上のバンドを観て感じる、その体験だ。」
が書かれています。
ストップ・メイキング・センス」の意味のヒントが隠れているかもしれません。

そして、バーチャルなネット情報に溢れている現代において、
「頭だけで考えるな。体で感じろ」という大事なメッセージのように感じます。

https://hillslife.jp/culture/2021/06/25/a-chronicle-of-hope/

 

「ブギウギ」は権田保之助の生きた時代と重なるようだ

 NHK連続テレビ小説「ブギウギ」から目が離せない。
笠置シズ子をモデルとしたドラマで、かなり現実に即しているようだが、ドラマティックに脚色しているところも多い。
視聴者はそれを承知でつい見入ってしまうのだろう。

笠置シズ子の恋人である吉本興業の吉本穎右は1923年(大正12年)生まれで、シズ子と出会った1943年(昭和18年)当時は20歳で、まだ早稲田大学の学生だった。
1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で焼け出されたシズ子と穎右は荻窪のフランス人宅に間借りし、愛情溢れる生活を送った。
終戦後の1946年(昭和21年)10月、シズ子は妊娠する。
1947年(昭和22年)、肺結核が悪化した穎右は西宮の実家に戻って療養に専念するが、1月14日に東京駅で穎右を見送ったのが今生の別れとなってしまう。
5月19日、穎右が亡くなったとの報せが入る。
6月1日、シズ子は女の子を無事に出産する。
そしてシズ子は、服部良一に「センセ、頼んまっせ」と声をかけて新曲を依頼したそうだ。
服部はシズ子のために、苦境を吹き飛ばす華やかな再起の場を作ろうと決心し、何か明るいものを、心がうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌、それは、シズ子のためだけではなく、日本人の明日への力強い活力につながるかも知れないと考える。こうして「東京ブギウギ」が誕生するのです。

 権田保之助は関東大震災(1923年9月1日)の前から東京都中野へ転居し、中野で終戦(1945年8月15日)を迎えました。
終戦当時、保之助には6人の子息がいましたが、当時15歳の5男は結核を患い、1948年10月に18歳という若さで亡くなってしまいました。
当時、結核は不治の病だったのでしょう。

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」は、権田保之助の生きた時代と重なるようだ。

菱川師宣と権田保之助

菱川師宣記念館の案内

 

菱川師宣記念館の入口


 先週、千葉県鋸南町にある菱川師宣記念館へ行き、特別展「浮世絵美人 時代を彩る女性たちを描いた絵師」を観てきました。

鈴木春信、喜多川歌麿などの美人画の名品が並べられ、絵師たちも工夫しながら時代に適応した美人画を書き続けた様子が感じられました。
特に歌麿筆「松葉屋喜瀬川」の髪の毛の生え際の産毛の描写は何度見ても「素晴らしい!」のひと言でした。
何よりも美人画の名品を真近でゆっくりと、しかも出品者の解説を聞きながら観られるのが至福のひとときでした。
 他にも、菱川師宣の「見返り美人図」、「石山寺紫式部図」、また江戸後期「源氏物語」のパロディ読物「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)の大ブームにより流行した錦絵「源氏絵」から、「其姿紫の写絵」全54枚シリーズが特別公開されています。

 そして、菱川師宣が1694年(元禄7年)5月に保田の別願院に寄進した梵鐘(ぼんしょう)の拓本がありました。
梵鐘には師宣の家族の名前が刻まれ、故郷と家族への感謝が込められた貴重な資料でしたが、残念ながら太平洋戦争中、金属回収令により1943年(昭和18年)に供出されてしまい現存していません。
菱川師宣記念館前に復元された梵鐘が設置されています。

菱川師宣寄進の梵鐘(復元)

 

 権田保之助は、1917年(大正6年)8月末に別願院を訪ねて、この梵鐘(実物)を観て、梵鐘に刻まれた文字を全文書き写しています。
詳細は浮世絵専門誌「浮世絵」第29号(大正6年10月発行)に掲載されています。

 私が菱川師宣記念館で購入した冊子にも梵鐘に刻まれた全文書が掲載されているので見比べたところ、いくつかの文字が異なっていることに気づきました。
当時、権田保之助が書き写し間違えたのか、浮世絵専門誌「浮世絵」の原稿で誤植が生じたのか、菱川師宣記念館で購入した冊子の文字に何らかの間違いが生じたのか分かりません。
機会があれば、もう一度、梵鐘(ぼんしょう)の拓本を確認したいと思います。

(梵鐘文字の相違箇所)
 浮世絵専門誌「浮世絵」 菱川師宣記念館の「冊子」 

 アマ千代清空也影    アマ千代清空西影
 ヲイス 同妻妙木    ヲイヌ 同妻妙本
 ヲカマ正勝寺室     ヲカマ正膳寺室

 

浮世絵専門誌「浮世絵」記載の梵鐘文字(その1)

浮世絵専門誌「浮世絵」記載の梵鐘文字(その2)

 

菱川師宣記念館の「冊子」記載の梵鐘文字

(追記)
 その後、菱川師宣記念館の館長に知人から問合せをしていただいたところ、次のような返事が来ました。


 「梵鐘の銘については権田氏の写し間違いと思われます。記念館には梵鐘銘の拓本(大正期に採拓)も展示しています。」
 もし再度、来館されたら、記念館に展示されている梵鐘銘の拓本(大正期に採拓)を確認されることをお勧めいたします。

 

 つまり、菱川師宣記念館の冊子は、大正期の梵鐘銘(実物)の拓本をもとに作成しているので間違いないとのことです。
 大正6年に権田保之助が書き写し間違えたのか、浮世絵専門誌「浮世絵」の原稿で誤植が生じたのか、原因は定かではありませんが、浮世絵専門誌「浮世絵」第29号(大正6年10月発行)の記載に4か所の誤字があることが令和6年に発見されました(苦笑)。

 

アルセーヌ・ルパンと権田保之助

アルセーヌ・ルパンという名前をご存じの方は多いと思います。
そう、ルパン3世のお祖父さん、怪盗ルパンです(笑)。

アルセーヌ・ルパンはモーリス・ルブラン(1864~1941年)というフランスの作家が1905年に生み出した怪盗です。

アルセーヌ・ルパンが日本で最初に紹介されたのは、1909年(明治42)に「サンデー」に掲載された「巴里探偵奇譚・泥棒の泥棒」(訳者:森下流仏楼)という作品で、ルパンは「鼬(いたち)小僧・有田龍三」となっていたようです。

(以下のサイトに詳しく掲載されています)
 https://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/lupin/lupinjapon1.html

 

権田保之助も翻訳し、ドイツ語と日本語を対比した独和対訳形式の文庫『アルセーヌ・ルパンの冒険』を1929年に出版しています。

ルパンの代表的な翻訳者である保篠龍緒(本名:星野辰男)は、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった人物で、権田保之助も星野辰男とともに協力していたようです。

独和対訳小品文庫「第三冊 アルセーヌ・ルパンの冒険」(翻訳:権田保之助)



権田保之助などが撮影した関東大震災直後の写真

 今年の元旦、石川県能登地方を震源とする地震津波・火災による甚大な被害が発生しました。
被災された地域の復興、被災された方に一日も早く安心した生活が戻ることをお祈りいたします。

私は、中学の修学旅行で初めて金沢と輪島に行きました。
当時(40数年前)は新幹線がなく夜行電車の普通席に座って行った記憶があります。
金沢の兼六園、輪島の朝市、棚田、塩田などとても思い出深い場所です。
朝市で賑わっていた地域が火災で焼失してしまったことはとてもショックでした。

その後も、もう十数年前ですが、御陣乗太鼓を観に輪島と珠洲市を旅行しました。

今朝のニュースでは金沢の近江町市場での商売が再開されたとのことでした。
近江町市場は新鮮な魚介類が沢山並び、活気が溢れていて、ここ数年で2回訪れています。
一日も早い各地の復興を楽しみにしています。

 自分の生まれた場所、住んでいる場所、好きな場所、行ったことのある場所が被災してしまうことは、とても辛いです。

100年前の関東大震災で被災した地域の方もきっと同じ思いをされたことでしょう。

 昨年2023年9月1日~今年2024年4月27日まで、千代田区九段北のHOSEIミュージアム大原社会問題研究所員が撮影した「関東大震災写真集」展示されています。
第1部では「都市の被災状況 -建物・死者・街-」、第2部では「被災後の都市 -避難・救援・復旧、復興-」が展示されています。

https://www.hosei.ac.jp/info/article-20230808112921/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54

HOSEIミュージアムでのイベントチラシ

昨年、第1部の展示を見てきました。
展示された写真は、震災後の混乱のなかで、大原社会問題研究所が社会を記録することに注力したもので、現地に派遣された所員による286枚の写真が収められています。
日誌には、
1923年12月4日 権田保之助氏ヨリ震災写真小包壱個到着
と記載されていることから、権田保之助も現地に派遣されて写真撮影したようです。

展示された写真の多くは、日比谷、丸の内、浅草、神田の写真で、三島の写真が1枚、中野町本郷の民家に貼り付けられた戒厳司令部の宣伝張り紙「軍隊警備継続要領」の写真が1枚あります。
また、浅草十二階が写った写真や浅草と思われる写真が多数ありますが、その多くは撮影場所の記載がありません。

 権田保之助は当時、中野町本郷に住んでいたので、中野町本郷の民家に貼り付けられた戒厳司令部の宣伝張り紙の写真は権田保之助が撮影したものと推察します。
また、浅草十二階が写った写真や浅草と思われる写真の多くに撮影場所の記録を残さなかったのは、浅草を愛したが故に大きなショックを受けた権田保之助の心情を表しているのかも知れません。

写真は、以下の場所の被災状況を記録している貴重なものです。

・浅草仲見世通り
・神楽坂通り
神田小川町通り
・浅草十二階
日本橋丸善
・吉原付近
歌舞伎座付近
ニコライ堂
・東京電燈
・神田通信局
・警視庁
・新橋停車場
万世橋
・帝国ホテル
日本橋通り一丁目
東海道三島付近
・日比谷
・小川町付近
・神保町
・銀座
・中野町本郷の民家に貼り付けられた戒厳司令部の宣伝張り紙

 

関東大震災直後の権田保之助

 

権田保之助のシンポジウムが開催

シンポジウム

「権田保之助から考える現代社会」と題する3回のシンポジウムが開催されます。
大正から昭和にかけての娯楽研究者・権田保之助を手掛かりに多様な研究領域から議論をすすめている「権田保之助スタディーズ」という研究会の主催です。

誰でも無料で参加できます。
ご興味ある方は是非視聴いただければと思います。
詳細については、以下へお問い合わせください。

問い合わせ先
gonda.studies@gmail.com

権田保之助スタディー
https://sites.google.com/view/gondayasunosukestudies

書籍「忘れられた娯楽研究家 権田保之助」が出版

 本日、「忘れられた娯楽研究家 権田保之助」という書籍がamazonから出版されました。ご興味ある方は是非、ご購入いただけると幸いです。

 なお、本書は学術書ではなく一般向けの読み物ですので、楽しんで読んでいただけると思います。

書籍「忘れられた娯楽研究家 権田保之助」

(書籍の購入はこちら)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CQLDMBD6?ref_=pe_93986420_774957520

以下、目次です。

はじめに
1.権田保之助について

2.父・権田保之助(権田速雄)
 はじめに
 (1)早稲田中学
 (2)櫛田民蔵との出会い
 (3)大塚保治先生のこと
 (4)学問への道
 (5)娯楽調査のあけぼの
 (6)月島調査
 (7)東大の講義
 (8)大原社会問題研究所
 (9)倉敷工場娯楽調査
 (10)浅草娯楽調査(付千日前調査)
 (11)外遊
 (12)家庭の人

3.映画鑑賞日記(権田保之助)
 (1)映画鑑賞日記(全文)
 (2)月刊誌「独語研究」編集後記など(抜粋)

4.権田保之助と映画
 (1)日本映画の発展
 (2)権田保之助と映画のかかわり
 (3)娯楽映画から映画統制、教育映画へ
 (4)権田保之助自身は映画をどう鑑賞したのか
 (5)権田保之助の観た映画を視聴してみました
 (6)参考資料
  ・権田保之助の映画に関する論考、発言など
  ・著書「活動写真の原理及び応用」に関して

5.権田保之助とおもちゃ絵
 (1)日本最初の浮世絵研究誌「浮世絵」の創刊
 (2)おもちゃ絵(玩具絵)について
 (3)いろいろなおもちゃ絵
 (4)おもちゃ絵の分類例
 (5)おもちゃ絵に関する権田保之助のかかわり
 (6)権田保之助のおもちゃ絵の体系的分類
 (7)権田保之助が見出したおもちゃ絵の文化的価値
 (8)権田保之助が収集したおもちゃ絵
 (9)おもちゃ絵を実際に見て感じたこと
 (10)権田保之助はなぜおもちゃ絵に興味を持つようになったのか

6.トピックス
6-1.権田保之助の通った小学校
6-2.櫛田民蔵との書簡(抜粋)
6-3.「日本美術」への投稿と木彫「かつを」の作者
6-4.中野に家を建てた権田保之助
 (1)中野の土地を選び家を建てた理由
 (2)その頃の中野鍋屋横丁(鍋横)
 (3)今でも残る鍋横の記録
6-5.式根島を愛した権田保之助
 (1)式根島を愛した権田保之助
 (2)権田保之助の愛した式根島の魅力
 (3)権田保之助の墓
6-6.権田保之助の社会調査、娯楽調査の姿勢
6-7.大原社研の権田保之助資料の閲覧
 (1)公開された権田保之助資料
 (2)権田保之助資料を閲覧

権田保之助_略年譜
権田保之助_主な著書、参考文献
あとがき

 

追記1:
大原社研で公開された権田保之助資料に関して、法政大学 大原社会問題研究所の以下のサイトに掲載されています。
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/777_05.pdf

 

追記2:
「享楽的映画研究者・権田保之助」と題する研究論文が1985年に早稲田大学名誉教授の岩本憲児氏にて報告されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/31/0/31_KJ00009645705/_article/-char/ja/