権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

映画に関する権田保之助のかかわり

 このブログで何度か、権田保之助と映画に関して記載しましたが、今回、全体像についてまとめてみました。

[概要]
 権田保之助は、ドイツ語学者、社会学者(娯楽研究者)ですが、1914年(大正3年)に「活動写真(映画)の原理及応用」(内田老鶴圃)を出版してから1940年代まで、いろいろなかたちで日本映画発展期において関わっています。著書「活動写真の原理及応用」の序文で「私は、もし現代人の生活から活動写真というものを取り除いたなら、その生活の内容は確かに或る欠損を来すことだろうとまでも考えて居るのです」「私は世の誤った活動写真の享楽的態度というものに反対しまして、これの矯正を希望すると同時に、活動写真の間違っている価値判断をも避けしめなくてはならないと思って居ます。活動写真の真価を計りまして、その誤らない本当の趣味を発揮させその本来の面目を示させる様に致しますことは、教育に携わる者は勿論、世の中の風教ということを心に留める人は言うまでもなく、政治に従事するものも、芸術に心を用いるものも忘れることの出来ない現代の共通問題であり、是非とも解かなくてはならない現代の共通義務では御座いませぬか」と述べています。

 日露戦争(1904~1905年)以後、活動写真は、そのニュース性から端を発し、動く写真の面白さ、表現の新しさが一般大衆に受け、活動常設館は不景気知らずの入場者の増加が続き、また増設が続いていました。特に1911年(明治44年)に輸入上映された「ジゴマ」を筆頭にその後続々と輸入された連続活劇物と称する探偵冒険映画の子供達に与えた影響は甚だ強烈で、「ジゴマごっこ」等の遊びが流行し、ひいてはこれを真似た少年犯罪までが新聞紙上を賑わすに至って、活動写真の教育に与える影響を重視し、世の識者は一斉に活動写真に対し避難指弾の論調をかかげ、大きな社会問題としてこれを取り上げ対策を考えようとする機運が盛り上がってきました。そのような活動写真隆盛の社会環境の中で「娯楽を味わう」ことの好きな権田保之助は一層「活動写真の研究」にのめり込んでいきました。民衆が好む活動写真とは一体どんな具合で作られ、映写され、また利用されるのであろうか。それと同時に受け手である民衆とは一体何者なのであろうか。そういった視点で「活動写真の原理及応用」が執筆されました。

 1917~1918年(大正6~7年)にかけて、帝国教育会からの委嘱により初めて娯楽調査を行うことになりました。この時期活動写真が児童に与えた影響は大きく、その是非が社会問題として取り上げられ、教育上極めて深刻な問題となっていたことが重要な背景をなしていました。権田保之助は活動写真に関する調査及び観察によって、活動写真の模倣による犯罪はわずか4人で、活動写真館に入るためのお金を得るために罪を犯したものは48人であることを明確にし、「少年犯罪の映写内容が直接に観衆に働きかけて、その暗示によって不良行為、犯罪行為が行われるものであるという今日の一般の考え方に対して、それは映画の直接的影響なるものは一般に考えられている程甚だしいものではない。活動写真の悪影響なるものは、これとは全然異なる原因から生じるものである。」としています。
 また、良映画を得るために検閲を厳重にすべきという考えに対して「検閲を厳重にすれば良映画が得られると考えることは、泥棒を捕まえれば善人が出ると考えることと全く同一の錯誤である」とし、「映画検閲の問題、悪映画の模倣防止よりも最も大切な事は、民衆をして呑気に活動写真位は観ることが出来るようにすることである。」と結論づけています。

(研究誌「権田保之助研究」、著書「民衆娯楽問題」より)

 

 権田保之助自身も映画を観ることが好きで、毎週火曜日を映画デーとして映画館へ足を運んでいました。活動や著書から、権田保之助の活動写真(映画)への「好き」が感じられます。好きこそものの上手なれです。

 

[活動写真に関する権田保之助の主な活動]
〇1912年(明治45年)活動写真(映画)の研究を始める。
〇1914年(大正3年)「活動写真の原理及応用」(内田老鶴圃)出版。活動写真の啓蒙活動。内容の大半は技術的解説で占められ、啓蒙的色彩の濃いものですが、最終章で「活動写真の哲学、活動写真の文明」という標題の下に哲学的、審美的要素の濃厚な文明史観、芸術論を展開して結んでいます。
〇1917年(大正6年東京市活動写真調査(帝国教育会)。
〇1919年頃(大正8年)日本映画の父として知られる牧野省三が設立した教育映画の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男とともに協力しました。
1920年大正9年)社会教育調査委員を嘱託。活動写真映画とその興行問題を中心として民衆娯楽の教育的利用対策の考究にあたりました。
1921年(大正10年)文部省より活動写真説明者講習会講師を嘱託。浅草公園、青年伝道館に於いて、1週間にわたって開催。活動弁士の向上をはかろうとしたものです。
1921年(大正10年)浅草調査(大原社研)。大正10年5~7月に行われた浅草の民衆娯楽(活動写真など)の実地調査と社会地図の作成。社会地図(複製)は江戸東京博物館に展示されています。
1921年(大正10年)「民衆娯楽問題」(同人社書店)出版。映画と教育の問題に興味を持つと同時に、浅草オペラなど浅草の民衆娯楽を著しました。
1924年大正13年)「映画新研究十講と俳優名鑑」(東京朝日新聞社大阪朝日新聞社)投稿。
〇1927年(昭和2年)文部省より教育映画調査を嘱託(~昭和18年4月)。
〇1928年(昭和3年)「映画検閲の問題」(法律春秋)、「活動写真法の制定へ」(法律春秋)投稿。
〇1930年(昭和5年)大原社研雑誌へ「教育映画運動と其社会的展開」投稿。
〇1930年(昭和5年)「映画百面鑑 独和対訳小品文庫4」(友朋堂)訳註。エミール・ヤ二ングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」、ぺーテル・グラスマン「映画と民衆」、クルト・ヴェッセ「映画の宣伝」他。
〇1931年(昭和6年)活映教育研究第1巻「教育活映の本質」(大阪毎日新聞社内全日本活映教育研究会)投稿。
〇1934年(昭和9年)大原社研調査室に於いて映画国策に関する調査を担当。大原社研雑誌へ「映画国策について」投稿。昭和10年「年少者の映画観覧状態概観」投稿。
〇1939年(昭和14年日本大学芸術科講師、「映画政策論」を講義。
〇1939年(昭和14年)雑誌「日本映画」へ「映画劇出生陣痛期」を寄稿。映画劇という言葉が使われる前は「活動写真劇」という言葉が使われていましたが、映画という言葉は大正の初め頃からチラホラ現れてはいるものの、その意味は極めて狭いもので、今日のような内容を包括したものではなかったようです。そして、映画とか映画劇とかと大っぴらに唱え出されるようになったのは大正11年頃、本当は震災後だと云っていいとのことです。
〇1939年(昭和14年)内閣より演劇、映画、音楽等改善委員会委員に任命。
〇1940年(昭和15年)雑誌「映画教育研究」(映画教育中央会)の特集「映画教育振興座談会」へ参加。
〇1941年(昭和16年)社団法人日本映画社より調査部を嘱託。
〇1941年(昭和16年)文部省より国民学校教科用 映画検定委員を嘱託。


[著書「活動写真の原理及応用に関して]
(「サイレントからトーキーへ」早稲田大学名誉教授。映画史・映画理論専攻。岩本憲児)
〇「活動写真の原理及応用」(大正3年出版)は、この時期の日本はむろんのこと、世界的にも珍しい映画研究書と思われる。第1章「活動写真の歴史」から始まって、第5章「活動写真の応用」に至る、技術的・実際的説明部分にも、映画百科的なパノラミックな視点があって、それも単なる知識の羅列に終わらない、映画を新しいメディアとして総合的にとらえようとする姿勢がうかがえる。

〇術語すら定まっていないので、権田保之助自身の命名と思えるいくつもの用語があって、映画史的にはなはだ興味深い。同書は、おそらくドイツ語文献を渉猟しながら、映画の歴史から説き起こし、当時の技術、運動の知覚、発展途上の技術と未来の映画、さまざまな領域への応用、美学、そして哲学と文明論にまで説きおよんでおり、その構成たるや、まさに「活動写真の世界」とでも呼べそうな幅の広さである。

〇もう1つ忘れてはならない重要な側面がある。それは啓蒙家である以前の、映画に対して自ら楽しく享受する享楽家としての側面であり、のちに、映画を中心的メディアとしてとらえながら、自然発生的・自然成長的・自律的な民衆娯楽全体を積極的に評価していく権田保之助の考えは、すでに「活動写真の原理及応用」の中にその萌芽を見ることができる。のちに長谷川如是閑が、映画を印刷術の発明にも匹敵する文化的産物と評価しながらも、結局「事相の再現」「再生産」「複製物」としてしかとらえなかった姿勢と比べるとき、権田保之助は映画を自律的にとらえようとしていた点で如是閑より進んでいた。

〇映画の形式上の特徴を分析しながら、映画美の探求を試みたことでも権田保之助は先駆的だった。
「活動写真と美」は、
 1.機械的特徴より生ずる美の種類
 2.経済的特徴より生ずる美の種類
 3.活動劇と舞台劇
 に分かれているが、この中では1.が最も重要であり、その特徴としては次の6点が挙がっている。
 a.場面狭小にして、しかもこれを拡大するを得ること。
  (細部が拡大されるため、観客は人物の表情に注目する。人物の意思とか感情とかに心を奪われるようになって、内容にのみ向かっていくようになる)
 b.光線の強烈なること。
  (刹那刹那に最も自分の注意を惹いた部分だけが印象に残る)
 c.平面なること。
  (平面を心の中で立体化する。活動劇に自己を盛るため、観客の主観的内容、主観的感情の美が生まれる)
 d.無色なること。
  (墨絵との類似。墨絵には奥に隠れている意味とか内容、力とか意志とかがある。活動劇の場合、動的・感傷的な内容がこれに代わって表われる)
 e.無音なること。
  (弁士がついていても画面とせりふの間には、ずれがあるので、ここに観客の自己がとびだし、主観的色彩が強まる)
 f.自然景の応用。
  (観客の住んでいる自然の一部としての背景)
 これらの6点は、18年後にルドルフ・アルンハイムが映画の芸術性を保証する形式の特徴として挙げた6点と似ている。

〇平面スクリーンを心の中で立体化するために、観客の主観的感情の美が生ずるという考えも、当時「写真・映画=非芸術論」の根拠となった「映像=客観性」という考えが大勢を占めていたことを思えば、権田保之助の「主観的感情美」論はすこぶる進歩的だったと言える。ドイツ出身の心理学者ヒューゴーミュンスターバーグが心理学の立場から、映画の成立根拠を主観的心理や錯覚に帰して詳細な映画芸術論をアメリカで展開するのは、権田保之助の著書より2年後である。

〇権田保之助の楽天的・積極的映画論は勇ましい言葉で結ばれる。曰く、美的概念の改造、生活価値の創作、新文明の誕生、と。言葉たらずであるとはいえ、権田保之助の野心的構想は時代から抜きん出ていたのではないだろうか。


[権田保之助の映画観について]
(「サイレントからトーキーへ」早稲田大学名誉教授。映画史・映画理論専攻。岩本憲児)
〇権田保之助の著作・エッセーから同氏の業績をいくつかまとめてみると、次の4点が浮かび上がってくる。
 1.映画全般におよぶ百科事典的啓蒙家
 2.上映や上演の形態、観客層の実態を数量的に調査した社会学上の先駆者
 3.自律的民衆娯楽の擁護者
 4.生活美化をめざした社会教育者
 これまでのところ、社会学の立場からも映画史の立場からも、第1点は見落とされてきたと言ってよいだろう。

 

今回は映画の話です

  最近、映画好きの知人の影響で映画を観たい気持ちが高まりました。この1か月で、TV、DVD、ネットで映画を7本観ました。映画好きな人には少ない本数かもしれませんが、私にとっては異常に多い数です。

[この1か月で観た映画]
・道(1954年、フェデリコ・フェリーニ)ネット
日本沈没(1973年、森谷司郎)TV
東京物語(1953年、小津安二郎)DVD
カリガリ博士(1919年、ロベルト・ヴィーネ)DVD
時をかける少女(1983年、大林宜彦)TV
ボヘミアン・ラプソディ(2018年、ブライアン・シンガー)TV
・街の灯(1931年、チャップリン)ネット

 

・「道」は知人のお勧めで、期間限定で無料ネット配信されていました。何とも言えない悲しさが心に残る映画でした。実は1987年9月に開催された「フェデリコ・フェリーニ映画祭」で「道」を観るはずだったのですが、何かの事情で観ることができませんでした。手元に当時の映画観賞券がそのまま残っています。なんと34年後に観ることができるとは。
・「日本沈没」は以前に観た映画ですが、結構忘れている場面が多かったです。東大教授の竹内均本人がそのまま出演しているのも面白いです。「復活の日」もそうですが小松左京の原作を見事に映像化しています。
・「東京物語」も知人のお勧めで、DVDを購入しました。素朴な日常が描かれていて、風景や遊びなど懐かしい思いがしました。知人お勧めの小津安二郎の「晩春」、山中貞雄の「人情紙風船」も観てみたいです。
・「カリガリ博士」は権田保之助のお気に入りの映画で、以前から観たいと思っていました。amazonでDVD発売されていたので思わず買ってしまいました。カリガリ博士は「ホラー映画」ですが、怖さの演出・表現に芸術的な味があり、意外な結末で面白かったです。「メトロポリス」も権田保之助がかつて興味を持って観た映画なので見てみたいと思います。まずはTUTAYAでレンタルでしょうか。
・「時をかける少女」も以前に観た映画ですが、以前観た時とは印象がかなり違いました。大林宜彦の尾道3部作の「時をかける少女」が特に好きで、原作(小説)を読んで、TVドラマ、アニメ映画、演劇(キャラメルボックス)も観ました。それぞれ良さがあり、演出も工夫されていて比較してみるのも面白いです。
・「ボヘミアン・ラプソディ」も以前に観た映画ですが、やはり劇場の方が迫力があります。We are the champions いい曲です。日本語吹替だったので以前観た時以上に理解できました。
・「街の灯」も知人のお勧めで、無料ネット配信されています。コメディの中に笑いと感動があります。

 

 そういえば権田保之助も映画(活動写真)が好きで、毎週火曜日を映画デーとしていたので、毎月12本程度(1日3本×4週)の映画を観ていたことになります。当時はTVでの映画放映、DVD、ネットもない時代なので、実際に映画館へ足を運んでいました。

 

 さて、久し振りに映画を観て以下のことに気づきました。
・映画は純粋に、観ていて楽しいしワクワクする
・人生で大事なことを知る、思い出すきっかけとなる
・映画には監督のこだわり、メッセージがあり、見聞を広げることができる
・以前に観た映画を久し振りに観ると、以前とは違った印象を持つことがある(何度か観る必要あるか)

 権田保之助は「娯楽なき人生は死である。人間に食物と飲物とが必要であるが如くに」との持論を持ち、活動写真(映画)は民衆娯楽だとしました。
映画は観ていて楽しいしワクワクしますが「映画がないと生きていけないか?」と言われると微妙です。

 バレエダンサーの吉田都さんは、
「ドイツの文化相は「芸術家は我々の生命維持に不可欠」とおっしゃいましたが、日本は違いました。確かに水や食べ物と違って、無いと生きられないものではないです。でも、これだけストレスのある状況で、人々は何に心を救われるのでしょうか。今こそ芸術が大きな役割を果たすときだと、私は考えています。」と述べています。(朝日新聞 2021.2.20)
ドイツの文化相の言葉にビックリです!

 また、「思えば映画館にしろ美術館にしろ、日常から奪われる日が来るとは想像しなかった。文化は案外もろいもので、だから大事にしなければと気づく。」(朝日新聞天声人語」2021.6.5)とあります。

 

 映画から、楽しいひととき、感動、人生で大事なことの気づき、新しい見聞などを得ることができると思います。
映画を観なくても生きていけるとは思いますが、もしかしたら人生で大事なことを逸してしまっているかもしれません。

娯楽の世界を変えたラジオ放送の開始

NHK連続ドラマ「おちょやん」こと浪花千栄子は1954年(昭和29年)から1965年(昭和40年)までNHKラジオ第一でラジオドラマ「お父さんはお人よし」に出演している。
ところでラジオで娯楽はいつ頃から放送されたのか。

日本のラジオ放送は1925年(大正14年)3月、社団法人東京放送局JOAK、現在のNHK東京ラジオ第1放送)によって始まった。
放送開始当初は、株式、物価、ニュース、天気予報、料理献立、英語講座、音楽などで番組が構成されていた。
1930年(昭和5年)にラジオが寄席の客寄せに有効だということが分かり、ラジオ中継を通して落語や漫才が披露されるようになった。
権田保之助も(昭和10年)2月にラジオ番組「母の講座」で講師を務め「児童の娯楽」について講義している。
また、1940年代にラジオドイツ語講座の講師を務めている。
国家の戦時体制が強化されると、ラジオでも戦意高揚や忠君愛国を叫ぶ番組が増加し、落語や漫才は「慰安」として取り上げられたが、番組の数は少なかった。
終戦後はGHQ占領政策の下でラジオ放送が行われ、義士伝ものが多い浪曲は大きな影響を受けたが、落語や漫才などのお笑い系はその対象とならず、1946年(昭和21年)8月には「笑いの時間」が設けられるなど、ラジオ娯楽の中心になった。
1946年(昭和21年)は、戦後のNHK立て直しのため4月に大原社研の高野岩三郎NHK初代会長に就任し、権田保之助がNHK常任理事に就任した年である。
きっと権田保之助もラジオ娯楽に貢献したのだろう。

逝ける川上邦世氏に就いて

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彫塑 第2号(大正14年7月1日発行)


雑誌「彫塑 第2号」(大正14年7月1日発行)に「逝ける川上邦世氏に就いて」(中野桂樹)と題する記事に彫刻家 川上邦世について記載されているので紹介したい。

[以下、抜粋]
・お客が来ると、お茶の代わりだと云うので、先ずお酒を出すため、天下の大小酒人が集まったものだ。酒が巡ってくると、川上先生は得意の大筆を持出し、絵の描ける人であろうが、無かろうが、そんな事は一向頓着なく、一筆やれとせめ立てる。最後に出来上がった一幅の画面こそ実に見ものなのだ。自由画で、これを評して奇談珍説、酒が進むにつれて川上先生の一人壇場であった。


・遺憾に堪えないのは、3,4点を除く他の作品は、いずれも愛蔵家が所有し一般公開の期を得ずにしまったことである。尤も川上先生は強いて出品製作のために、製作するのでなくいつでも作品が完成した頃幸い展覧会でもあれば、そこへ出品されたものだった。何時でも一作一作がみな日常生活の愛児であり、芸術であったのだ。


・作品「きつね」に付いては面白い話がある。先生が或る日石神井の池の端で遊んで居ると一匹の狐が木の切株の処へ乗って、しきりに水の中の魚を捕ろうとして居るので、その様子が如何にも面白く是非これを製作して見ようと永い間種々と考察した揚句漸やく完成したのが、日本美術協会出品の「きつね」である。
処が妙な事には、その狐が毎夜枕元に立ち始めは、気味が悪いからと云うので展覧会閉会後家へ持って来ないで友人の処へ預けて置いたが、それも気になって仕方がないので、家へ持ち帰り石神井の池の畔りへ御堂を建てその狐を収めるのだと云って毎日アトリエの真中に飾ってどんな御堂にしようかとしきりに考察して居たと云う事である。

 

彫刻家である川上邦世氏は、大正14年6月2日に石神井村の奥に安眠されました。
権田保之助は川上邦世(澹堂)の木彫「かつを」を大切に所持していました。

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川上邦世の木彫「きつね」

 

日本映画発展期の権田保之助の関わり

 NHK連続ドラマ「おちょやん」こと浪花千栄子が若手映画女優として活躍し始めた1920年代半ばから1930年代前半の日本映画界は、サイレント映画から、音声の表現もあるトーキーへの移行という大きな転換期を迎えていました。千栄子が1928年(昭和3年)に映画デビューを果たした東亜キネマは、サイレント映画を製作・配給しており、「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三など、日本映画界の黎明期を代表する映画人を多く輩出しています。そして昭和30年代(1955年~1964年)は、年間約6000本の映画が作られる日本映画の黄金期となりました。


 権田保之助は、1914年(大正3年)に「活動写真の原理及応用」(内田老鶴圃)を出版してから1940年代まで、いろいろなかたちで日本映画に関わっています。日本映画発展期における権田保之助の関わりは大きかったのではないでしょうか。

 

[以下、日本映画に関する権田保之助の主な関わり]
・1914年(大正3年)「活動写真の原理及応用」(内田老鶴圃)出版。活動写真の啓蒙活動。
・1917年(大正6年東京市活動写真調査(帝国教育会)。
・1919年頃(大正8年)日本映画の父として知られる牧野省三が設立した教育映画の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男とともに協力する。
1920年大正9年)社会教育調査委員を嘱託。活動写真映画とその興行問題を中心として民衆娯楽の教育的利用対策の考究にあたる。
1921年(大正10年)文部省より活動写真説明者講習会講師を嘱託。浅草公園、青年伝道館に於いて、1週間にわたって開催。活動弁士の向上をはかろうとしたもの。
1921年(大正10年)浅草調査(大原社研)。大正10年5月~7月に行われた浅草の民衆娯楽(活動写真など)の実地調査と社会地図の作成。
1921年(大正10年)「民衆娯楽問題」(同人社書店)出版。映画と教育の問題に興味を持つと同時に、浅草オペラなど浅草の民衆娯楽を著した。
1924年大正13年)「映画新研究十講と俳優名鑑」(東京朝日新聞社大阪朝日新聞社)投稿。
・1927年(昭和2年)文部省より教育映画調査を嘱託(~昭和18年4月)。
・1928年(昭和3年)「映画検閲の問題」(法律春秋)、「活動写真法の制定へ」(法律春秋)投稿。
・1930年(昭和5年)大原社研雑誌へ「教育映画運動と其社会的展開」投稿。
・1930年(昭和5年)「映画百面鑑 独和対訳小品文庫4」(友朋堂)訳註。エミール・ヤ二ングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」、ぺーテル・グラスマン「映画と民衆」、クルト・ヴェッセ「映画の宣伝」他。
・1931年(昭和6年)活映教育研究第1巻「教育活映の本質」(大阪毎日新聞社内全日本活映教育研究会)投稿。
・1934年(昭和9年)大原社研調査室に於いて映画国策に関する調査を担当。大原社研雑誌へ「映画国策について」投稿。昭和10年「年少者の映画観覧状態概観」投稿。
・1939年(昭和14年日本大学芸術科講師、「映画政策論」を講義。
・1939年(昭和14年)雑誌「日本映画」へ「映画劇出生陣痛期」を寄稿。
・1939年(昭和14年)内閣より演劇、映画、音楽等改善委員会委員に任命。
・1940年(昭和15年)雑誌「映画教育研究」(映画教育中央会)の特集「映画教育振興座談会」へ参加。
・1941年(昭和16年)社団法人日本映画社より調査部を嘱託。
・1941年(昭和16年)文部省より国民学校教科用 映画検定委員を嘱託。

著書「活動写真の原理及応用」が面白い!

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活動写真の原理及応用


権田保之助の最初の著書「活動写真の原理及応用」(大正3年10月18日発行)が面白いので紹介したい。

[概要]
 内容の大半は技術的解説で占められ、啓蒙的色彩の濃いものであるが、最終章で「活動写真の哲学、活動写真の文明」をいう標題の下に哲学的、審美的要素の濃厚な文明史観、芸術論を展開して結んでいる。

[以下、本文より抜粋]
〇巻写真
・今日の活動写真では、巻写真(フィルム)を使っています。所で、この巻写真と云うのはセルロイド製の薄く細長い帯なのであります。そしてこれに一里一毛の隙間もなくびっしりと順々に画が写されているんです。この写し出された絵の1つ1つを「映画」と呼び、全部の帯を「巻写真」ということに致そうと思います。この2つの言葉は、今日までははっきりと区別されずに使われて居りましたが、これからは、私の様な意味で使って戴きたいと希望します。「巻写真(フィルム)」という変な字を使いましたのは、西洋のFilmという字から取ったのでして、今、日本でも普通に使われて居るからです。

〇近世活動写真に伴う危険と其の防御法
グラスゴーでは燃焼しはじめた巻写真を救おうとして映写技師がその一身を犠牲にしたという様な惨劇もありました。我が国でも浅草のルナパークはそれがために火事を起こし、兜町の兜座も焼けて仕舞いました。

〇不燃質巻写真の発明
・燃焼し易いセルロイド製の巻写真に代わるに、何か容易に燃焼しない原料で作った巻写真を得ることは出来ぬものかという考えは必然起って来なくちゃならないのでして、それについて種々の試み、種々の研究が行われましたが、皆失敗に帰して仕舞いました。ところが漸くにして独逸のエルベルフェルトという所のバイエル商会の化学者アイヒェングリューンという人がツェリットというセルロイドに似て、しかも不燃質の物を発明しました。これで巻写真を作って1908年(6年前)にイエナの化学大会で映写して好結果を得たということであります。またフランスのリヨンなるルミエール兄弟によっても、他の種の不燃質巻写真が作り出されたとも云われています。

〇発声活動写真(キネトホン)
・今日の活動写真が、もし声を出して、画の中の人物が動作に連れて物を言い、鳥が歌い、犬が吠えて、磯に砕ける波の音、松にむせぶ風の調までも自然のままに聞こえる様になったらばどんなでしょう?
・私は一昨々年独逸で出版されました活動写真の書物の中で第63図に示す図を掲げて「発声器と活動写真との結合」という記事を読んだ位でしたから、そして其れは殆ど完全に出来上がっている位のものでしたから、私は昨年エジソン氏によって新しく発明されたものは、それとは余程趣を異にしたものかと楽しんで待っていた次第なのです。ところが実際に見ますと、別段に変わったところもない様でがっかり致したというわけなんでした。そして独逸の本で読みました時に、いろいろと私が想像してみました欠点が相変わらず残っているのにもがっかり致しました。もっともそれかと云ってエジソン氏の功を全然没却してしまう訳ではございませんのでして、活動写真機と蓄音機との間の調和を非常に巧みに実際上に行ったことと、蓄音機其の物に改良を加えた跡のあるのは氏の没すべからざる苦心の手柄であると存じております。

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図63 発声活動写真構造の模型

〇弁士について
・日本物において申しますと、撮影を終わって調整が済みますと、まず「下調べ」と云って警官立合で検閲がありますが、その時に弁士もそれに列してその筋を知ります。他に台本がありますから、それでセリフを覚えます。
・説明の本当に面倒なのは西洋物です。西洋物には巻写真と一所に説明書が添えられてきますが、弁士はそれについて大筋を知るのです。ところが外国語の長さと日本語の長さとは違いましょうし外国語其のままが日本語でいわれるとしても、日本のお客様には興味を起こさせることも出来ませんし、了解をさせることさえも出来ぬか知れません。ですからそれには筋の説明と会話とをうまく調和させていって、難しくなく又だれない様にとすることが困難の所でもあり、又技量の発揮どころと申すことができましょう。殊に欧州の中世紀や上古の歴史劇になりますと、時代の信仰、習慣、神話、歴史一般を少なくともよく知っていなくてはならないのでして、それだけでも確かに1つの学問になって仕舞う位です。

〇活動写真の文明について
・如何に些細なこと卑近な事柄でも、それを研究して最後に文明と交渉させるまでに進んだならば、それが真の研究と称すべきものであろうと思うのです。
・卑近な、極めて俗臭の多いこの「活動写真」の研究を思い立ちましたのも、その根源はと云えば、前に申した様な考えから、高尚な題目を無駄に犬死にさせている人が多い様だから、せめては卑俗な題目を取り扱って真面目な研究の対照にして見たいものという謀反気だったのです。
・大袈裟に申すと、本書は活動写真を中心とした文明論です。活動写真を籍りて表した価値論であると申して宜しいと思います。
・現代の社会経済組織は資本主義の時代です。資本主義では、藝術をさえも企業化しようとするのです。そしてその一例は今流行の応用美術で、他の例はこの活動写真なのです。
・現代の生活は時間促急の中にあるんです。活動写真が緊張感を維持するために、事件の進行を促急するところがやがては現代生活のこの情調に相応じるところでして、活動写真が現代人に喜ばれる有力な一原因と申さねばなりません。
・形式の纏わりに重きを置く芸術が喜ばれないで、内容の力に中心を定めようとする芸術が歓迎され、生活の外に楽しむ芸術が現代から敬遠せられて、生活其物の中に楽しむ芸術が喝采せられるのはこのためにです。活動写真が歓迎される大原因は現代生活のこの側面にあるのではありますまいか。

 

権田保之助は大原社会問題研究所雑誌にて「本邦映画社会問題関係者解説」と題して、主な書籍を紹介しているが、その中で自身の著書を以下のように紹介している(昭和9年10月)。
〇大正3年 権田保之助著 活動写真の原理及応用
・序言に云う「私は、もし現代人の生活から活動写真というものを取り除いたなら、その生活の内容は確かに或る欠損を来すことだろうとまでも考えて居るのです」「私は世の誤った活動写真の享楽的態度というものに反対しまして、これの矯正を希望すると同時に、活動写真の間違っている価値判断をも避けしめなくてはならないと思って居ます。活動写真の真価を計りまして、その誤らない本当の趣味を発揮させその本来の面目を示させる様に致しますことは、教育に携わる者は勿論、世の中の風教ということを心に留める人は言うまでもなく、政治に従事するものも、芸術に心を用いるものも忘れることの出来ない現代の共通問題であり、是非とも解かなくてはならない現代の共通義務では御座いませぬか」
・書いてある事実は既に古くて、今日の参考にはなり得ないが、啓蒙期の特徴として各種の映画問題が包容されている所に、映画社会問題の展開への第一歩としての史的価値はあると思う。


〇大正10年 権田保之助著 民衆娯楽問題
・其の民衆娯楽の調査の中の活動写真に関する調査は大正6年の春に帝国教育会の委嘱によって行ったものであってその種の調査の我が国に於ける先鞭である。

 

[その時代前後に出版された活動写真関係の主な文献(参考)]
・明治30年 活動大写真  駒田好洋 広目屋商店
・明治37年 活動写真自在  同鹿市隠 M・パテー
・明治37年 自動写真法  大東棲主人訳 梅屋広告
・明治44年 活動写真百科辞典  梅屋庄吉 M・パテー
・明治45年 活動写真撮影百科辞典  梅屋庄吉 M・パテー
・大正 3年 活動写真の原理及応用  権田保之助 内田老鶴圃
・大正 6年 活動写真劇の創作と撮影法  帰山教正 飛行社
・大正 7年 教育と活動写真  文部省 文部省
・大正 9年 民衆娯楽の研究  橘高広 警眼社
・大正10年 民衆娯楽問題  権田保之助 同人社

木彫「かつを」の作者川上邦世を評価する権田保之助

権田保之助は大正5年6月に「建築工芸雑誌」に「置物彫刻の将来」を投稿しており、その中で木彫「かつを」の作者である川上邦世について述べているので紹介したい。

 

[以下、抜粋]
・日本将来の置物彫刻を形成する、当面の人として、光雲、雲海、朝雲の3氏は、ここに敬意を表していわないが、殊に注意すべき3人がある。即ち内藤伸、川上邦世、平櫛田仲の3氏である。この3氏は各々長所も短所もあって、将来が大疑問であるだけ、それだけ将来が非常に面白い。

・川上邦世氏は、内藤氏とは反対である。氏は日本国民性情のある一面を能く同感している人であると思う。内藤氏のは時代生活の表面であるが、氏のはその一面と云いたい。部分的同感であると云いたい。そしてこの部分的同感に、非常に深いところがあるのが特長であって、氏の作品に接すると、ある一種のアトラクションを感じるのも、ここに有るのであろう。けれどもこの得点はまた失点であって、内藤氏のように躍動していないから、徹底的の大観を有している。そして其の結果として、作品に遊びの分子が多い。部分的低回の弊が、どうしても離れないようである。だから氏は大に時代生活を徹底的に解釈して、動いている上に、更に氏の国民性情を発露したならば、有望なる将来があるように思う。

・3氏共に未成品である。日本の置物彫刻の完成したるものとは、荀旦にも云い得るものではない。この3氏が大に自分の将来に向かって、殊に日本の置物彫刻の将来を考えて、各自其長短を理解し、美しい将来の開展を希望するものである。