権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

新宿武蔵野館で映画「カリガリ博士」を観ました

本日(2026年6月4日)、新宿武蔵野館で映画「カリガリ博士」を観ました。

「カリガリ博士」は1919年にドイツで製作された無声映画ですが、かつて武蔵野館で弁士を務めていた徳川無声の音声素材を復元して上映されました。

映画「カリガリ博士」

徳川無声の語りは、いわゆる活弁とは異なり、普通の語り口調でした。時折、笑い声を交えながら楽しそうに語る声は、とても素敵でした。

 

以下のブログに書きましたが、権田保之助は、映画「カリガリ博士」を1921年と1925年に見損ない、1929年3月29日にシネマ・パレスで観ることができました。

https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/11/07/202242

 

権田保之助が記載された「二村一夫著作集5巻」を購入しました

石川県能登地方を震源とする地震津波・火災による甚大な被害が発生して2年が経ちました。大好きな地域の生活再建が依然として課題であることに胸が痛みます。被災された地域の復興、被災された皆さまに一日も早く安心した生活が戻りますことをお祈りいたします。

10月に八丈島に襲来した台風22号・23号の影響による被害も甚大で、自主避難所は閉鎖されたものの、つい先日まで断水・停電が続いていた地域もあり、温泉施設は12月になってようやく営業再開しました。未だに土砂災害などの復旧は終わらず、営業停止したままの事業者もいる状況です。

災害から日数が経過すると、被災した地域のことを忘れてしまい勝ちですが、忘れないこと、できる範囲にはなりますが支援を続けることが大事だと思います。

今日は、権田保之助の次男速雄氏の命日です。
大原社会問題研究所(大原社研)の元所長である二村一夫の「大原社研こぼれ話」が掲載された「二村一夫著作集5巻」が発売されました。
「二村一夫著作集」はオンライン版がネットで公開されていて、「大原社研こぼれ話」に権田保之助の記載があることから、生前の速雄氏が読みたいと言っていました。
本書籍を購入して、墓前にて「どうぞ心ゆくまでお読みください」と報告しました。

権田保之助の墓前にて

二村一夫著作集5

(著者)
二村 一夫(にむら かずお)
法政大学名誉教授。法政大学大原社会問題研究所名誉研究員。
1934年生まれ。1967年から99年まで法政大学大原社会問題研究所専任研究員。
1984年から10年間、同研究所の所長を歴任。1994年から96年まで社会政策学会代表幹事。
また、英国ウォーリック大学、米国ハーバード大学ミシガン大学、カリフォルニア大学などで研究員を務める。
1999年、定年により法政大学を退職。

(オンライン版「二村一夫著作集」はこちら)
http://nimura-laborhistory.jp/oisrcontents.html

芸術・芸能の「美」と「味」って何だろう

今年4月に山口県・萩・浦上記念館、大阪・高槻市 今城塚古代歴史館、大阪市立東洋陶磁美術館万博記念公園太陽の塔国立民族学博物館を訪問しました。


大阪市立東洋陶磁美術館は、その名のとおり、東洋の陶磁器を収蔵・展示しています。高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、約6,000点を収蔵。国宝2点、国の重要文化財13点を含む、貴重なコレクションを形成しています。

私は陶磁器のことはよく知らず、これまで実物を見る機会は多くなかったのですが、東洋陶磁美術館で国宝の油滴天目茶碗と飛青磁花生、青磁陽刻菊花文碗を見た時は、その美しさに見とれてしまいました。粉青粉引瓶は絶妙な歪みが心地よく、加彩婦女俑の微笑む姿には美しさとパワーを感じました。

不思議なことに、形が少し歪んだ形状の陶磁器は見ていて飽きませんでした。

 

絶妙な歪みが良い「粉青粉引瓶」

 

美しさとパワーを感じる「加彩婦女俑」

日本で最初の本格的な彫刻団体「日本彫刻会」(1907年結成)の初代会頭 岡倉天心(1862~1913年)は弟子に「諸君は売れるものをお作りになるから売れないので、売れないものをお作りになれば必ず売れる」と話したようです(「平櫛田中回顧談」中央公論新社)。

岡倉天心は、茶には日本文化および伝統的な東洋文明の精神が凝縮されているとし、茶の歴史や、その背景にある哲学、茶が生み出した芸術や美意識などを通して、日本文化や伝統的東洋文明の根底に流れる世界観を著書「茶の本」で説いています。

 

日本彫刻会に所属し高村光雲に師事していた川上澹堂(邦世)(1886~1925年)は以下のことを語っています。
初めから置物を作ろうと思ったら、それでいいから、置物を作ればいいのだ。それだのに置物を作りながら、色々の芸当をしようとすると、変てこな物になってしまうのです。
・むやみにまわりから色々とかれこれ云わなくても、だまって一人で一人の考えだけのものを作った方がよっぽど立派なものが出来るわけなのです。   
・僕の改良とか、進歩とか云う事は、妙な変てこな物の出来上る事が大変にいやですから、必要がなくなってしまうのです。
(「日本美術」第165号、1912年11月)

 

頭で考えた理屈ではなく、感性で素直に作り上げることが大事だ、ということでしょうか。

 

また、6月に下北沢の画廊で、鳥居清長の浮世絵に囲まれながら、長唄謡曲のライブ公演を楽しむ機会を得ました。長唄謡曲をライブで聴いたことのない私は、それまで「長唄謡曲は平坦な曲調で面白くない」と思っていたのですが、ライブで聴くと、その声の幅と豊かさ、言葉の優しさにいつの間にか包まれていました。

日本の長唄は『調べ』で、西洋の音楽とは異なる。複数の三味線それぞれの音の違いから雑音が生まれゆとり成分となる。唄と三味線の音をずらすことで心地良さが生まれる。経験則で複数の人と息を合わせて唄うことができる。」という長唄杵徳派家元の杵屋徳衛さんの解説はとても興味深かったです。

東洋のVenusを画いた清長展(浮世絵、長唄謡曲

 

東洋の陶磁器と彫刻、長唄謡曲などには、合理的な西洋芸術とは異なる東洋の美意識があることを再認識しました。

 

万博記念公園太陽の塔』も合理的なものではなく民族的な精神が宿っています。1970年の万博から55年経過しますが、今でも現役で生きているような存在感があります。本物は褪せません。55年間ずっと待っていてくれたように感じました。

55年間ずっと待っていてくれた「太陽の塔

 

合理的でないもの、整っていないもの、そういったものに「美」と「味」が宿っているように感じます。
人間そのものが合理的でなく、整っていないので、そういったものに「心地良さ」や「安心」を感じるのかも知れません。

 

そして、実物を観たり聴いたり触れることの大切さを改めて実感しました。何かとネット情報を鵜呑みにしてしまう現代においては、特に必要なことだと思います。

 

権田保之助は学生時代に日本美術に関心を示し、日本彫刻会の高村光雲平櫛田中、川上澹堂(邦世)などを評価していました。
詳しくは、以前掲載した以下のブログに書いています。

「日本美術」への投稿と木彫「かつを」の作者(2021.1.31)
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/31/213421

木彫「かつを」の作者川上邦世を評価する権田保之助(2021.2.6)
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/02/06/225942

 

私と権田保之助・速雄氏との出会いから今日まで

石川県能登地方を震源とする地震津波・火災による甚大な被害が発生して1年が経ちました。被災された地域の復興、被災された皆さまに一日も早く安心した生活が戻ることをお祈りいたします。

権田保之助の次男速雄氏が亡くなって今日でちょうど6年が経ちました。速雄氏と出会ってから亡くなるまでのことが脳裏に蘇ってきます。

私と権田保之助・速雄氏との出会いから今日までを振り返ってみました。
主な出来事などを以下に記載します。

〇1993年:権田保之助の親族から権田保之助の人柄などを伺いました(以下に記載)。この内容が権田保之助を如実に表していると思います。
・ドイツ語学者だった。
・誰でも教育は平等だと考えた。
・学者ずらは嫌いだった。
・押し付けるのが嫌いだった。
・楽しもうという考えだった。

〇速雄氏は趣味で銅版画教室へ通い、銅版画教室の作品展示会が年1回開催され、作品展示会へ出向いて速雄氏と交流しました。速雄氏の銅版画は地味な色合いの味わい深い作品でした。

〇2015年:速雄氏が主体となって編纂して1974年~1975年に出版された「権田保之助著作集第一巻~第四巻」を少し読んでみました。
・「大正時代の活動写真(映画)の映写時間を通常の2時間半から1時間19分に早回しして、1日3回の興行を4回に増やした」など具体的な記載で面白いと思いました。
・浅草と活動写真に対する権田保之助の愛情を感じました。

〇2016年:江戸東京博物館の常設展「大正時代の民衆娯楽コーナー」で権田保之助が調査して記録した「浅草社会地図」の復元地図を見ました。1923年(大正12年)の関東大震災前の浅草の街の貴重な記録だと思い興味を持ちました。この復元地図は、速雄氏も参加していた「日本人と娯楽研究会」が復元したものです。日本人と娯楽研究会は1982年(昭和57年)~1986年(昭和61年)に「権田保之助研究」誌 第1号~第4号を発行しました。
(関連記事)
 私にとっての権田保之助
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2019/02/17/234928

〇2016年:神田神保町の古本屋で権田保之助の著書「民衆娯楽論」を見つけて購入しました。不思議な出会いを感じました。

〇速雄氏は2016年秋頃から体調を崩し、この頃から速雄氏との交流が深まりました。

〇2017年:権田保之助研究の第一人者を速雄氏から紹介いただき、交流を始めました。

〇2017年:権田保之助が蒐集した「おもちゃ絵」を1961年に速雄氏が有楽町にある酒井好古堂へ売却したことを伺い、翌日、酒井好古堂へ伺いました。以降、酒井好古堂の店主と交流を続けています。
(関連記事)
 「おもちゃ絵」の話
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2020/10/13/205144

 おもちゃ絵について
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2022/09/19/211653

 初めておもちゃ絵の文化的価値を見出し体系的に分類した権田保之助
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2022/09/19/180659

〇2019年1月1日、速雄氏は熱海の病院で亡くなりました。享年98歳でした。

〇2019年:淡路町ワテラスで開催された古書市で偶然手にした「おもちゃ絵」の本に権田保之助がおもちゃ絵を蒐集していたこと、大正7年の展覧会でおもちゃ絵を出品していたことが記載されていました。
淡路町ワテラスは権田保之助が大正時代に通った浮世絵専門店「酒井好古堂」と映画館「シネマパレス」があった場所です。これには驚きです。

〇2019年:権田保之助が蒐集した「おもちゃ絵」の実物に出会いました。驚きです。
(関連記事)
 権田保之助のおもちゃ絵に出会いました
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2019/10/14/131946

〇2020年:1915年(大正4年)~1920年大正9年)に酒井好古堂が発行した浮世絵研究誌「浮世絵」に権田保之助が「おもちゃ絵」に関する論文を複数回寄稿していることから、浮世絵研究誌「浮世絵」を購入しました。権田保之助がおもちゃ絵を体系的に分類していることの詳細について知ることができました。

〇2022年:研究会「権田保之助スタディーズ」が発足し研究会に参加しました。従来の論考に縛られない若手研究者の豊かな着想、優れた情報収集力に感動しました。

〇2023年:速雄氏が2012年に法政大学大原社会問題研究所へ寄贈した「権田保之助資料」が整理されて公開され、4回に亘って資料の一部を閲覧しました。権田保之助に関する貴重な資料だと思います。
(関連記事)
 未公開の「権田保之助資料」が公開されました
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2023/02/10/223657

 大原社研で「権田保之助資料」を閲覧しました!
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2023/03/31/194142

 大原社研で再度「権田保之助資料」を閲覧しました!
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2023/05/03/213532

〇2023年:「忘れられた娯楽研究家 権田保之助」がAmazonより出版されました。
(関連記事)
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2023/12/19/221821

振り返ってみると、不思議なご縁で今日に至っているように感じます。
そして「銅版画」から始まり「木版画」の浮世絵、おもちゃ絵に至っていることに気づきます。「銅版画」も「木版画」も「複製美術」。権田保之助の著書「美術工芸論」が思い出されます。

今日は速雄氏の命日。
この文書を速雄氏に捧げます。

 

浮世絵オークションでの気づき

浮世絵オークションへの参加は今回が2回目です。
今回は入札価格が1万円から始まる「成行品」を1つか2つ購入したいと思っていました。

オリジナルの浮世絵は、よし藤の明治時代のおもちゃ絵「志ん板かってどをぐ尽し」(お勝手道具を一式並べた絵柄)を1枚持っているだけで、
他は復刻版の浮世絵、プリント版(印刷)の浮世絵が数枚で、普段は復刻版の浮世絵を部屋に飾っているので、江戸時代のオリジナルの浮世絵を部屋に飾って好きな時に眺めたいと思うからです。

幸いにして、事前の下見で気に留めた豊国三代の「東海道五十三次之内 日本橋」、広重の「行書東海道 御油」の2枚をほぼ最低価格で購入できました。

三代豊国 東海道五十三次之内 日本橋

広重 東海道五十三次 御油(行書版)

部屋に飾って毎日眺めていますが、
・オリジナル作品は落ち着いた色合い
・作者の想いが感じられる
・一枚の刷りに込めた想いが伝わってくる
・薄くて丈夫な紙質
・裏面の手摺り感
など、江戸時代の浮世絵師、彫師、摺師の技に感動します。
そして、当時の浮世絵を大切に保存してきた浮世絵商、コレクターの方々に敬服します。オリジナルの浮世絵には復刻版の浮世絵にない味と雰囲気があるように思います。

なぜだろう。
その理由の1つとして、
・(そもそも)オリジナルの浮世絵と復刻版の浮世絵は顔料、彫師が異なる。
ということがあると思います。

そうなんです。
江戸時代のオリジナルの浮世絵では草木から作った顔料を使っていますが、戦後の復刻版では化学合成した顔料を使っているんです。

写真、印刷、映像では、人が関与して作られたこと(手作り感、作者の想いなど)が薄れてしまいます。
オリジナルの浮世絵を見て触れることで、実物に触れることの大切さに気付かされます。


さて、オークションではいろいろなことに気づかされます。
例えば、私が落札した浮世絵はどちらも東海道五十三次ですが、よく知られている広重の「東海道五十三次(保永堂版)」ではなく、豊国三代の「東海道五十三次」、広重の「東海道五十三次(行書版)」なのです。
東海道五十三次と言えば広重の保永堂版だと思っていた私は、これには驚きました!

その後調べてみると、
歌川広重の「東海道五十三次」には、保永堂版の他にも、狂歌入(55枚)、行書版(59枚)、隷書版(55枚)など版元の異なる作品集があり、他にも五十三次各所図会(堅絵、55枚)、人物東海道(55枚)、東海道風景図会(55枚)、東海道五十三図会(美人東海道、33枚)など東海道ものは多数あることが分かりました。
さらに、東海道シリーズには東海道五十三対(広重、三代豊国、国芳)など他の絵師の作品もあることを知りました。

東海道五十三次 日本橋(保永堂版)

東海道五十三次 日本橋狂歌入)

東海道五十三次 日本橋(行書版)

東海道五十三次 日本橋(隷書版)

五十三次各所図会 日本橋(堅絵)

人物東海道 日本橋

東海道風景図会 日本橋

東海道五十三図会(美人東海道日本橋

東海道五十三次は、江戸(日本橋)~京都(三条大橋)までの東海道にある53の宿場町と、日本橋三条大橋の2枚を含めた55か所の浮世絵ですが、天保年間に保永堂から出版された広重の「東海道五十三次(保永堂版)」(1833~1834年)は当時、大変人気があり、日本橋は後に絵柄の異なる版が製作(再刻)されました。そのため広重の「東海道五十三次(保永堂版)」は56枚あるのです。

東海道五十三次 日本橋 行列振出(再刻)

また、オークションでの落札価格は、人気のある作者・作品、良い彫り・刷り、保存状態の良い作品は高値となり、絵の縁を切り取ったもの、裏打ちしたものなど手を加えている作品は価格が下がることが分かりました。
例えば、以下の作品ですが、落札価格は大きく異なります。

広重 名所江戸百景 亀戸天神境内(200万円)

広重 名所江戸百景 亀戸天神境内(20万円)

広重 名所江戸百景 亀戸天神境内(10万円)

 

浮世絵オークションではいろいろな気づきや発見がありました。

念入りな下見、意思の強さ、時の運で落札が決まるように思います。
もしかしたら、作品が購入者を選ぶのかも知れません。

 

(追記)
権田保之助は大正初期におもちゃ絵(子供向けの浮世絵)を収集して調査し、体系的に分類しました。
詳細は以下のブログに掲載していますので、閲覧いただけると幸いです。

(初めておもちゃ絵の文化的価値を見出し体系的に分類した権田保之助)
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2022/09/19/180659

(おもちゃ絵について)
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2022/09/19/211653

橘高広と権田保之助

法政大学の大原社会問題研究所で公開された権田保之助資料「第一回活動寫眞説明者講習会講習録」によると、大正10年(1921年)2月21日~28日に行われた「第一回活動寫眞説明者講習会」は、中田俊造が開会の辞を述べ、続いて権田保之助の活動写真劇の真美的観察」、星野辰男の「活動写真の技術的考察」、大島正徳の「国民道徳と現代思潮」、乗杉嘉壽の「社会教育と活動写真」、橘高広の「活動写真の取締について」、菅原教造の「説明者と講習」、乗杉嘉壽の閉会の辞という内容です。

書籍「活動写真弁士」(片岡一郎著、(株)共和国)によると、活動寫眞説明者講習会では講義だけでなく、朝日新聞社を訪問したり、懇話会を行ったりと実地研修科目も多数用意され、東京内外から集まった約100名の弁士が受講したようです。

また、大正10年(1921年)11月に発行された冊子「活動時報」では日本初の活動写真展覧会が開催されることが紹介されていますが、活動写真展覧会協賛会役員の中に、乗杉嘉壽、菅原教造、権田保之助、橘高広、星野辰男などがいます。権田保之助は「民衆娯楽としての活動写真」を文部省社会教育調査員として寄稿しています。
さらに、大正12年(1923年)~昭和2年(1927年)の関西弁士協会・説明者協会の会報と月報にて、権田保之助は「説明芸術の誕生」を、橘高広は「社会事業と活動写真」を寄稿しています。

 

権田保之助自宅の書斎にて(一番左が権田保之助、左から2番目が橘高広さん)

権田保之助の次男速雄氏が保管していた写真の中に、大正12年(1923年)12月12日に権田保之助自宅の書斎で橘高広と権田保之助が一緒に写った写真があります。

 

テーブル上の映画ポスター

テーブル上の映画ポスターに「・・大震火災・・」、「大グリフィス氏作 世界の心 リリアン、ドロシー・ギッシュ」の文字が読めます。
大正12年といえば関東大震災が起きた年。「・・大震火災・・」はドキュメンタリー映画『大震災記録:大震火災』(1923年)でしょうか、「東京大震火災の實寫」でしょうか。

 

映画チラシ「震災火災」(国立映画アーカイブより)

映画チラシ「東京大震火災の真実」(国立アーカイブより)

関東大震災を題材にしたドキュメンタリー映画
『震災と復興』(1923年)
『大正関東大震災記録』(1923年)
『大震災記録:大震火災』(1923年)
『帝都の大震災』(2013年)
関東大震災 1923年9月1日』(2023年)
関東大震災の記録と教訓』(日本映画新社)
関東大震災と都市復興』(東京大学地震研究所)

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また、権田保之助が渡欧する際に開かれた1924年夏の渡欧送別会に橘高広さんも出席しています。
橘高広と権田保之助は映画に関してきっと深く交流したのでしょう。

権田保之助の渡欧送別会(前列左から2番目が権田保之助、前列一番右側が橘高広)

帰山教正と権田保之助

権田保之助は、1939年(昭和14年)10月に発行された日本映画 第4巻第10号「映画法記念10月特別号」にて「映画劇出生陣痛期」を寄稿しています。

日本映画「映画法記念10月特別号」

 

その中で現代映画人にとってバイブルともいえる「活動写真劇の創作と撮影法」とその著者 帰山教正(かえりやまのりまさ)氏が何度も登場しているのが興味深い。というよりも、これは映画劇誕生にまつわる帰山教正氏のエピソードそのものです(驚き)。

以下、「映画劇出生陣痛期」の抜粋。

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・日本映画史における映画劇の誕生のための陣痛は随分長く続いたものだ。この陣痛期は大正4,5年頃に始まって9年までも続いたものであって、その面倒な産婆役を勤めたのがわが帰山教正君だったのだ。
・この間、帰山君に会った時にも話がでたが、一体「映画」という言葉が今日一般に使われているような意味で使われ出したのはそもそも何時頃からだったろうかと言うと、僕らが普通に考えているようなそんなに古いことではないようだ。
・日本における映画劇の創成に最も示唆に富んだ刺激を与え、没すべからざる原動力となったものは、帰山君が大正6年の夏に出版した「活動写真劇の創作と撮影法」だったと言える。
・帰山君をしてこの憤慨を一層大ならしめたものは、当時の外国映画が比較にならぬ程に立派な事であった。
・今でもなおその頃の映画ファンに懐かしい思い出となっている青鳥映画がどれ程帰山君の心を打ったことだろう。
・そこでこれらの鬱憤が遂に爆発したのが帰山君のあの著書だった。しかしこの帰山君の主張は当時中々一般の耳には入らなかった。
・ところがここに帰山君達に時節到来したのである。当時日活を向こうに廻して目覚ましい争覇戦を戦っていた天活は業界の新人によって時代に卓でようとして、帰山君に目を付け、その外国部員に招聘した。帰山君はここに青山杉作、近藤伊代吉、村田實等と共に映画芸術協会を設立して、いよいよ積年の宿題を成就しようと思い立った。
大正7年の夏クランクを始めた。映画は「生の輝き」と「深山の乙女」の2つ。花柳はるみが我が国最初の映画女優として出演したことが特に注意されてよい。
・この映画女優が初めて出演し、初めてスポークン・タイトルを使って、外国映画と同じ式に説明された純活動写真劇なるものはどんな反響を当時の映画界に与えただろうか?
 世間はただポーとして狐につままれたような食い足りないような気持で、黙って引き下がっているのだった。そして「活動画法」という雑誌のある号の投書欄の隅っこに「深山の乙女はこれまでの様々な新派物よりも余程すぐれています」という6号活字の評言が出ただけで終わった。あまりにも無残な幻滅だ。
・けれど帰山君のこの苦心はやがて大正9年 松竹キネマが創立され、小山内薫氏を所長とする松竹キネマ研究所が設立されて映画劇がようやく一本立ちになるようになったことで報いられたのだった。

・そしてわが帰山君は?・・・昨夜「日本映画」の会合の後を君と2人並んで日比谷公園の傍を静かに歩いた。陰暦19日の月が中天に懸かって、映画技術者協会の健全なる発達を熱心に考えている帰山君の広い額を照らした。

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本文中に「わが帰山(教正)君」という記載が2か所あります。

帰山教正と権田保之助はきっと親しい映画仲間だったのでしょう。