権田保之助ん家

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調査報告が遅れた権田保之助の浅草調査

以下、権田保之助の次男速雄氏の「父・権田保之助」より抜粋。

 調査報告が遅れた権田保之助の浅草調査

「民衆娯楽問題の原書は丸善にはありません。浅草にあります。」と学生の質問に答えたほど浅草を愛した権田保之助は、東京の下町育ちの例にもれず根っからの浅草ファンだった。
その浅草を観察するうちに、そこは民衆が作り出した娯楽地であることに気がついた。
権田保之助の民衆娯楽論の基調となる考え方はこうして浅草の観察から生まれた。
大正10年初頭から調査プランを推敲、東西二大娯楽地の比較というテーマも加え、大阪道頓堀千日前の調査も併せて行うことにした。
3月一杯で構想がまとまり、社会地図の作成が4月から始まり、実地調査が5月に開始され7月に終了した。
その後の整理も9月一杯で終わった。
その時の調査状況は幸い残された「浅草調査日誌」により略々知ることが出来るが、その時調査助手とされた宇野弘蔵氏が著書「資本論五十年」及び随筆「ものにならなかった浅草調査」中に述べられた調査の思い出は貴重な証言である。
しかしこの時の調査結果は何故か直ぐには発表されなかった。ずっと遅れて昭和5年3月号の社研雑誌に『娯楽地「浅草」の研究(一)』として発表され、(二)以降は遂に書かれなかった。
その全構想は残された総目次でうかがい知るのみである。
遅延と中断の理由は判らない。しかしその時の社会情況と社研の事情、権田保之助の考え方の変化等を総合的に検討してみるとある程度その理由を推察出来るので、以下私見を述べてみたい。

 

以下、次男権田速雄氏の私見(抜粋)。
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大正10年9月、調査票その他の整理が終わり、その集計編整に取りかかったのであるが、父は丁度その頃多くの仕事を抱え込みすぎていた。
いかに精神の高揚期であり、体力気力が充実していた時期であるとは言え余りにも仕事の量が多すぎる。
若干の年月の前後はあるものの、殆ど同時並行的に行われたと思える仕事を列挙すると次の通りである。
1 倉敷調査
2 文部省全国民衆娯楽調査
3 サービス業従業者調査
4 月島調査報告執筆
5 自著の出版(3冊)
6 芸術教育会の設立と運営

これでは膨大な資料を処理しながらまとめなければならない「浅草調査報告」が遅れるのは当然である。
しかも愛着のある「浅草」の調査なのでより完璧を期したいという思いもある。
そうこうするうちに大正12年9月1日関東大震災がおこり、激甚をきわめたその災害は「浅草」を壊滅せしめた。
復興は早かったが外面的に止まり、内面的様相は大きく変わった。
それは「浅草」に集まる民衆の質と量の変化であった。
「浅草」を作り出した市民層であるプロレタリアとインテリゲンチャは分散してしまった。
「娯楽地浅草」もまた分散してしまった。
父は悩んだ。東京の娯楽地図が全部塗り替えられてしまったような現在、震災直前の浅草の娯楽調査の結果を発表することは何の意味があるのか。
その時期の父の気持ちをある程度推測できる記事が大正13年7月18日付の中外商業新報に出ている。
その中で「今整理中の浅草の民衆娯楽調査は震災後非常に変化をして居るから帰朝後震災前後の比較調査をする積りで居ます」と語っている。

では、大正14年10月帰朝以後はどうであったか。
「浅草」の再調査は遂に行われなかった。
震災をはさんで「浅草」の新旧を対比することに意欲の持てない何かがあった。
もはや「浅草」ではない、いつまでも「浅草」にこだわるべきではないという思いが日に日に強くなっていく。
しかし調査したときから満8年たった昭和4年10月になって論文を寄稿し始めた。
その「はしがき」には遅れた理由は明記していないが、発表する理由の中に文化史的意義を強調している。
私にはその執筆の動機が震災以前最盛期の浅草に対する郷愁の情と思えてならない。
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権田保之助の学問研究に対する姿勢

人文科学の研究法は、自然科学(物理、化学、数学、心理学等)のそれとは全然別でなくてはならぬ。
即ちある概念を立てて「何々とは何ぞや」と論じ、公理を定め、定理を立ててゆくことは自然科学の研究法でありますが、人文科学、社会科学に於ては、その逆であらねばならぬ。
ここでは社会現象そのもの、実際関係そのものから出発して逆に抽象的概念に帰納しなくては駄目である。
今日の人文科学、社会科学の不進歩は、この様な抽象的概念から出発するからであると考えている。」
(大正9年4月から大正10年3月の間、女子英学塾で講義した時の冒頭の挨拶より)

 

東京の下町育ちで、はやくから「浅草」に親しんできた権田保之助は、そこに集まる人々の生態即ち娯楽愛好の傾向に興味を持つようになり、中でも人気のある活動写真(映画)に目をつけるようになった。
なぜ活動写真が多くの人に好まれるのかという素朴な疑問から、その人々の階層の変化に気がついた。
権田保之助の民衆娯楽論の出発点であった。
このように社会の実態、現象を調べてその中から真理、法則を発見する方法は権田保之助の信念になっていった。
それが自分の性分にも合っていた。