権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

「映画鑑賞日記」と「独語研究」

ここに権田保之助の昭和4年3月22日から7月2日までの「映画鑑賞日記」(写)がある。次男の速雄氏が書き写したものである。
昭和4年4月から毎月発刊された権田保之助主幹の「独語研究」と見比べると面白い。
今日は権田速雄の命日。本稿を権田速雄に捧げる。

 

[「映画鑑賞日記」(写)全文]
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・昭和4年3月22日(金曜日)
本当の久振りで、浅草へ出掛けた。
文部省を夕5時近くになって出て、一寸有隣堂へ立寄って、6時近くに浅草へ。
先づ「松竹座」へ入った。”King of Kings”を見るのが目当てであったが、入ったらその映画の末端を映写している所、所が馬鹿々々しい程の大入で、何時まで待っていても座れ相にない。そしてその”King of Kings”に一巡するまでには大変である。つまり惧れをなして飛び出した。
『東京館』へ入る。「モン・パリ」を目当てに或る期待を抱いて 全プロ、
 第三大学生活
 興太捕物記
 モン・パリ
を立通した。しかし「モン・パリ」には失望した。
とうとう全部立ち続けで随分疲れた。
帰宅したのが11時すぎ。

 

・昭和4年3月25日(月曜)
速雄が2年の修業を祝い、春休みの休養の為めにと、速雄と照雄とを伴れて、午後1時『シネマ銀座』へ来た。
・・・『シネマ銀座』という館へは、その前身の今春館時代からも、今回が初めての入場である。
「ザンバ」を見ることが自分自身の目的でもあり、子供等にもそれを見せるつもりだった。
そして始めから終りまで全番組を見た。即ち
 キートンの大学生
 ロイドのスピーディ
 ザンバ
速雄も照雄も大喜びであったが、4時間近い長い映写には疲労を感じたと見え、肝腎の「ザンバ」に至っては少々飽きた様子。
「ザンバ」はしかし教育映画として優れたものであると云い得よう。

 

・昭和4年3月27日(水曜)
矢張り、速雄と照雄との為めに、子供の芝居を見に、明治座へ出かけた。雨にぬかった道を遠く久松町まで、電車で行くことは閉口した。
途中で降参して、とうとうタクシーで乗り付けた。
速雄は前に一度 芽生座の公演を昨年秋に朝日講堂座で見たので、芝居の経験はあるが、照雄は始めてとて不思議がっていた。
2人とも第三の「天下太郎諸国漫遊記 海洋冒険の巻」が一番に気に入った。いや満座の可愛らしい観衆は何れも皆、これが最も面白かった様だ。
第一の「実を結ばぬ椿」は哀調を帯び過ぎて不向き。
第二の「ほほ笑み」は余りに教えようとし過ぎて失敗。
第四の「玩具店」なぞは先づまづ無難のものか。

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シネマパレス



・昭和4年3月29日(金曜)
雨降りしきる中を、松屋で用達しをすませて、午後1時前に『シネマ・パレス』へ来た。
それは「カリガリ博士」を見度い為めである。「カリガリ博士」は今までよくよく縁がなかった。
大正十年 浅草調査をした其の時にキネマ倶楽部で封切されていたのを僅か二三分間見た丈けで、遂に機会を逸し、外遊して伯林で夏(1925年の)Tauentsien-Palastに上映されていたのに、これも遂に見逃して仕舞った。
所が今度「独語研究」を創刊して其創刊号の巻頭には口絵として「カリガリ博士」の映画の一場面を特に載せた。
その雑誌は昨日、見本が一部届けられたのである。
其う云ういきさつでどうしても今度こそ見て置かねばならぬ映画だったのだ。
カリガリ博士」は、何としても優れた記念である。
「殴られる彼奴」もいい映画だ。
エル・ドラドー」は一番感心され得なかった。

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カリガリ博士



・昭和4年4月9日(火曜)
午すぎ中野の宅を出て、浅草へ赴った。・・・いろいろ考えて、一周に一日は「映画デー」を設ける必要があると思い、毎週火曜日を特にそれに当てようかと思い立った。
今日がその実行の第一回!
『松竹座』に入る。満員。
 カナリヤ殺人事件
 剣劇レビュー 慶安二刀流
 メトロポリス
メトロポリス」を見るのが目的。しかし、その技巧は兎に角素晴らしいものだが、内容は余り豪いものではない。
尤も資本主義文化の頂点を描写せるものとしては、比較的に面白いものであろう。
『電気館』へ入ったが、時間の都合が悪くて「鉄仮面」は見れなかった。

 

・昭和4年4月16日(火曜)
速雄が風邪を引いて熱を出したので気懸かりの為めに、映画デーを中止していたが医師が見えて大したことも無いと聞いて、夕飯をすませて、牛込館へ行った。
牛込館へは今回がはじめて、それは「都会の哀愁」を見んが為めである。
ヴァレンチノの「荒鷲」の後半から見た。
 荒鷲
 都会の哀愁
荒鷲」は、大したものではなく唯だヴァレンチノの追憶のみ、「都会の哀愁」は面白いと思った。
後は見ずに館を出て、久し振に神楽坂通りを歩いて帰った。

 

・昭和4年4月23日(火曜)
兼て浅草で見落した『キング・オヴ・キングス』を見ようとしていた所が、成子不二館に上映されると知って、ぶらりと出かけた。
昼間の映写とて、お客は少なく極めて閑散、一種のノンビリとした気持ちになる。
浅草あたりには見られぬ一種の味がある。しかし同時に随分呑気者のような自嘲的な気分にもなる。
番組の抑々最初から最後までを見た。いや開演まで三十分近くも待たされたのは近頃笑止であった。
天然色喜劇という変なものは別として、
 日活現代喜劇「私と彼女」
 キング・オヴ・キングス
前者は大したものではなく、後者は大物でも、日本には向くまいと思った。

 

・昭和4年4月29日(天長節
小学校で天長節の式が終って(自分も其式場に参列していたが)速雄、照雄の両人を伴れて、むしろそのお伴をして、歌舞伎座へ松竹の子供の芝居を見に出かけた。
前月一回出かけていて芝居を見ることに慣れたので、両人とも今度は余りに驚異しなかった様子。それで段々と鑑賞する態度が出来た様である。
二人とも大喜び。
出し物の中では矢張り『天下太郎諸国漫遊記』が一番に小さい観衆に受けていた。しかし今回の節は前回と比して劣っていた。
其他の出し物三種は前回の夫等よりも大変に揃っていていいと思った。
唯だ最後の『櫻の歌』は前回の切りの方が面白く思われた。

 

・昭和4年5月21日(火曜)
久し振りに浅草へ行って、先づ松竹座へ入った。
ウファの作品を見ようが為めである。
 ワルツの夢
大して傑出した映画ではない。寧ろ重ぼったい感じの残る餘り好かない映画である。
ただ、Wienの街の背景だけはすばらしく心持がよかった。
その後で『開国文化』というレビューを見た。
此の方が無性に面白かった。
松竹座を出て、何の気なしに富士館へ入る。
別に何を見ようというあてがあった訳ではない。
そして『逆転』の後半を見た。
日本映画の鮮やかな撮影振りと、テーマの取扱い方の変化とを感じた。

 

・昭和4年6月8日(土曜)
予てから櫛田君と大内君とが『伯林』が見度いという希望があったが、其後、この映画が少しも上映されずにいた。
所が今度シネマ・パレスで上映されることになったのを知って、早速両君に報じて、今日の晝間興行に出かけようと手筈を定めた。
然るに櫛田君の都合が悪いので中止した。(尤も大内君は単独で出かけたのであるが)
そして居ると、夕方櫛田君が見えて都合が付いたからこれから出かけようと誘いに来たので、大急ぎで出かけた。
『伯林』はもう半分ばかり済んでいた。その後で
 市俄古(chicago)
を見た。面白いと思った。
帰りに藪で蕎麦を食べて帰った。

 

・昭和4年6月16日(日曜)
速雄と照雄と前隣の司ちゃんを伴れて、午後4時半開演の芽生座の芝居を見た。
朝日講堂へ行った。
少し早目であったが、しかし晝の部の公演がまだ終らずにいた。待って待って暫く、6時近くになってはじまった。
子供の為のものでは、殊に時間を十分に注意してくれねばならぬと思う。
一番目の一幕物「黄菊と白菊」とは可愛らしいもので、先づ無難なもの。
しかし二番目の主なもの、即ちストリンドベルヒ作『ペエアの旅』に至っては、全く感服が出来なかった。
それは「子供の為め」にはあまりに難しい内容を有ったもので、築地あたりで大人に見せても、十分その精神がのみ込めるものが餘り多くはあるまい。
馬鹿なものを選んだものだ。
それに時間が甚しく予定よりも遅れたので、三幕まで見て後は止めて帰った。
それから夕飯を食べて帰ったら9時半。本当に懲り懲りした。
二度と行くことに躊躇される。

 

・昭和4年6月19日(水曜)
文部省の帰りに、有隣堂に寄り「独研特別号」の校正の打合わせなぞを済ませて、神田の店へ一寸立寄り、急いでシネマ・パレスへ出かけた。
午後6時半頃。それはゲオルグ・カイザーの『朝から夜中まで』を見ようと思ってである。
所が行って見るともう『朝から夜中まで』は殆んど終らんとしていた。それだから何とも分からなかった。
 朝から夜中まで
 思い出
『思い出』を全編見終わって帰った。

 

・昭和4年6月24日(火曜)
朝10時半頃家を出て浅草へ行き、松竹座へ入った。
流石にすいている。ウフア社の『世界大戦』を見る為めで時間を測って出かけたのだ。
 世界大戦
好箇の記録映画であって、同時に記録映画が又興行映画としての位置を獲得する分野の一つを示差したものであると云い得る。
後で『サモア土人の踊』を見て、急いで浅草を去り、文部省で
 マッターホルン
を見た。山の映画として心持のよい映画であり、『聖山』を見たとは又別な興味を与えてくれた。
しかし『聖山』の方が力が強いように思われた。
今日は独乙映画デーであった。

 

・昭和4年7月2日(火曜)
正午浅草へ着き、先づ腹を作るべく鮨清に入ってすしを食べてみると、折柄ラジオのニュース放送が始まって、「田中首相辞表捧呈一大命民政党浜口総裁に下る」
という報が伝えられ、居合わせたお客様が一斉に拍手した。
先づ富士館へ入って
 日活行進曲
を見た。満員の中に立ち続けて疲れた。
それから電気館へ入って、
 バグダットの盗賊
を見た。綺麗な映画で、技巧もうまい。

 

・昭和5年5月22日~5月28日
「邦楽座プログラム」のみあり。
 若き翼
 浮気登校
 女秋園

 

・昭和5年7月2日
 カジノ・フォーリーレヴュー
 (第24回公演)
 「プログラム」のみあり。
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[「独語研究」に掲載された映画関連の内容を抜粋]
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・創刊号(昭和4年1月1日発行)
 口絵に映画「カリガリ博士」の写真を掲載。

 

・第一年第五号(昭和4年8月1日発行)
 編集後記に「私は7月8日の月曜から一週間ばかり、教育映画状況視察という文部省の公用で、静岡、名古屋、金澤、富山と一巡し、途中加賀の片山津温泉で温泉情調を味って来ました。」と記載。

 

・第三年第七号(昭和6年7月1日発行)
 編集後記に「忙しいと云えば、此頃は文部省の推薦映画の事務の関係で、映画の審査によく出かけます。殊に毎火曜日は私の映画デーで、必ず浅草へ出かけることになっています。間の抜けた顔をして映画に見とれている私を発見されても、どうか笑わずに下さい。」と記載。

 

・第四年第二号(昭和7年2月1日発行)
 編集後記に「其の間に一周に少なくも一度は映画の視察。一昨年も、午後一時半頃から浅草へ出かけて、大勝館、富士館、日本館と順繰りに出たり入ったりして、バンクロフトの「鐵壁の男」、千恵蔵の「國土無双」、キートンの「紐育の歩道」を見た。しかも其の所要時間、僅かに四時間。」と記載。

 

・第四年第八号(昭和7年8月1日発行)
 編集後記に「此の十二日に大阪で大原研究所の月次講演会で盆踊撲滅論を一くさりやって急ぎ帰京して、早速ゼミナールの講義に隔日に出たり、お盆の浅草で「チャンプ」「ミラクルマン」「旅は青空」「笑う父」等々を見たりした私も、来月は早々、上総は鹿野山の下、大貫の海岸へ出かけて、ボチャボチャやって来ようと思っています。」と記載。
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