権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

権田保之助の映画観について

コロナ禍でもありネットで書籍を購入した。
「サイレントからトーキーへ」(早稲田大学名誉教授。映画史・映画理論専攻。岩本憲児著)である。
この中で、権田保之助の社会学者としての映画観が述べられているので紹介したい。

[以下、抜粋(一部編集)]
・権田保之助の著作・エッセーから同氏の業績をいくつかまとめてみると、次の4点が浮かび上がってくる。
 1.映画全般におよぶ百科事典的啓蒙家
 2.上映や上演の形態、観客層の実態を数量的に調査した社会学上の先駆者
 3.自律的民衆娯楽の擁護者
 4.生活美化をめざした社会教育者
 これまでのところ、社会学の立場からも映画史の立場からも、第1点は見落とされてきたと言ってよいだろう。

・「活動写真の原理及応用」(大正3年出版)は、この時期の日本はむろんのこと、世界的にも珍しい映画研究書と思われる。
 第1章「活動写真の歴史」から始まって、第5章「活動写真の応用」に至る、技術的・実際的説明部分にも、映画百科的なパノラミックな視点があって、それも単なる知識の羅列に終わらない、映画を新しいメディアとして総合的にとらえようとする姿勢がうかがえる。

・術語すら定まっていないので、権田自身の命名と思えるいくつもの用語があって、映画史的にはなはだ興味深い。
 同書は、おそらくドイツ語文献を渉猟しながら、映画の歴史から説き起こし、当時の技術、運動の知覚、発展途上の技術と未来の映画、さまざまな領域への応用、美学、そして哲学と文明論にまで説きおよんでおり、その構成たるや、まさに「活動写真の世界」とでも呼べそうな幅の広さである。

・もう1つ忘れてはならない重要な側面がある。それは啓蒙家である以前の、映画に対して自ら楽しく享受する享楽家としての側面であり、のちに、映画を中心的メディアとしてとらえながら、自然発生的・自然成長的・自律的な民衆娯楽全体を積極的に評価していく権田の考えは、すでに「活動写真の原理及応用」の中にその萌芽を見ることができる。
 のちに長谷川如是閑が、映画を印刷術の発明にも匹敵する文化的産物と評価しながらも、結局「事相の再現」「再生産」「複製物」としてしかとらえなかった姿勢と比べるとき、権田は映画を自律的にとらえようとしていた点で如是閑より進んでいた。

・映画の形式上の特徴を分析しながら、映画美の探求を試みたことでも権田は先駆的だった。
 「活動写真と美」は、
 1.機械的特徴より生ずる美の種類
 2.経済的特徴より生ずる美の種類
 3.活動劇と舞台劇
 に分かれているが、この中では1.が最も重要であり、その特徴としては次の6点が挙がっている。
 a.場面狭小にして、しかもこれを拡大するを得ること。
  (細部が拡大されるため、観客は人物の表情に注目する。人物の意思とか感情とかに心を奪われるようになって、内容にのみ向かっていくようになる)
 b.光線の強烈なること。
  (刹那刹那に最も自分の注意を惹いた部分だけが印象に残る)
 c.平面なること。
  (平面を心の中で立体化する。活動劇に自己を盛るため、観客の主観的内容、主観的感情の美が生まれる)
 d.無色なること。
  (墨絵との類似。墨絵には奥に隠れている意味とか内容、力とか意志とかがある。活動劇の場合、動的・感傷的な内容がこれに代わって表われる)
 e.無音なること。
  (弁士がついていても画面とせりふの間には、ずれがあるので、ここに観客の自己がとびだし、主観的色彩が強まる)
 f.自然景の応用。
  (観客の住んでいる自然の一部としての背景)
 これらの6点は、18年後にルドルフ・アルンハイムが映画の芸術性を保証する形式の特徴として挙げた6点と似ている。

・平面スクリーンを心の中で立体化するために、観客の主観的感情の美が生ずるという考えも、当時「写真・映画=非芸術論」の根拠となった「映像=客観性」という考えが大勢を占めていたことを思えば、権田の「主観的感情美」論はすこぶる進歩的だったと言える。
 ドイツ出身の心理学者ヒューゴーミュンスターバーグが心理学の立場から、映画の成立根拠を主観的心理や錯覚に帰して詳細な映画芸術論をアメリカで展開するのは、権田の著書より2年後である。

・権田の楽天的・積極的映画論は勇ましい言葉で結ばれる。曰く、美的概念の改造、生活価値の創作、新文明の誕生、と。
 言葉たらずであるとはいえ、権田の野心的構想は時代から抜きん出ていたのではないだろうか。