権田保之助ん家

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日本映画発展期の権田保之助の関わり

 NHK連続ドラマ「おちょやん」こと浪花千栄子が若手映画女優として活躍し始めた1920年代半ばから1930年代前半の日本映画界は、サイレント映画から、音声の表現もあるトーキーへの移行という大きな転換期を迎えていました。千栄子が1928年(昭和3年)に映画デビューを果たした東亜キネマは、サイレント映画を製作・配給しており、「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三など、日本映画界の黎明期を代表する映画人を多く輩出しています。そして昭和30年代(1955年~1964年)は、年間約6000本の映画が作られる日本映画の黄金期となりました。


 権田保之助は、1914年(大正3年)に「活動写真の原理及応用」(内田老鶴圃)を出版してから1940年代まで、いろいろなかたちで日本映画に関わっています。日本映画発展期における権田保之助の関わりは大きかったのではないでしょうか。

 

[以下、日本映画に関する権田保之助の主な関わり]
・1914年(大正3年)「活動写真の原理及応用」(内田老鶴圃)出版。活動写真の啓蒙活動。
・1917年(大正6年東京市活動写真調査(帝国教育会)。
・1919年頃(大正8年)日本映画の父として知られる牧野省三が設立した教育映画の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男とともに協力する。
1920年大正9年)社会教育調査委員を嘱託。活動写真映画とその興行問題を中心として民衆娯楽の教育的利用対策の考究にあたる。
1921年(大正10年)文部省より活動写真説明者講習会講師を嘱託。浅草公園、青年伝道館に於いて、1週間にわたって開催。活動弁士の向上をはかろうとしたもの。
1921年(大正10年)浅草調査(大原社研)。大正10年5月~7月に行われた浅草の民衆娯楽(活動写真など)の実地調査と社会地図の作成。
1921年(大正10年)「民衆娯楽問題」(同人社書店)出版。映画と教育の問題に興味を持つと同時に、浅草オペラなど浅草の民衆娯楽を著した。
1924年大正13年)「映画新研究十講と俳優名鑑」(東京朝日新聞社大阪朝日新聞社)投稿。
・1927年(昭和2年)文部省より教育映画調査を嘱託(~昭和18年4月)。
・1928年(昭和3年)「映画検閲の問題」(法律春秋)、「活動写真法の制定へ」(法律春秋)投稿。
・1930年(昭和5年)大原社研雑誌へ「教育映画運動と其社会的展開」投稿。
・1930年(昭和5年)「映画百面鑑 独和対訳小品文庫4」(友朋堂)訳註。エミール・ヤ二ングス「映画演出」、エルンスト・ルビッチ「映画国際性」、ぺーテル・グラスマン「映画と民衆」、クルト・ヴェッセ「映画の宣伝」他。
・1931年(昭和6年)活映教育研究第1巻「教育活映の本質」(大阪毎日新聞社内全日本活映教育研究会)投稿。
・1934年(昭和9年)大原社研調査室に於いて映画国策に関する調査を担当。大原社研雑誌へ「映画国策について」投稿。昭和10年「年少者の映画観覧状態概観」投稿。
・1939年(昭和14年日本大学芸術科講師、「映画政策論」を講義。
・1939年(昭和14年)雑誌「日本映画」へ「映画劇出生陣痛期」を寄稿。
・1939年(昭和14年)内閣より演劇、映画、音楽等改善委員会委員に任命。
・1940年(昭和15年)雑誌「映画教育研究」(映画教育中央会)の特集「映画教育振興座談会」へ参加。
・1941年(昭和16年)社団法人日本映画社より調査部を嘱託。
・1941年(昭和16年)文部省より国民学校教科用 映画検定委員を嘱託。