権田保之助ん家

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権田保之助に関する海外書籍

書籍「近代による超克(戦間期日本の歴史・文化・共同体)」(ニューヨーク大学教授 ハリー・ハルトゥーニアン著、2007年 岩波書店)に権田保之助に関する記載があるので紹介します。

[以下、抜粋]
・民衆的な娯楽形態を研究した飽くなき社会研究家として、権田のスタンスは、1920年代のマルクスに触発された批判的な実践から、1930年代後半になるとファシスト的な大衆的国民文化の理解へと急速に移行した。しかしながら彼はその間、国民文化の形成を民衆娯楽の構築にみるという見解を一貫して保持した。そしてその娯楽の歴史は、本質主義者や「復古主義者」に言祝がれているような不変性ではなく、むしろモダンライフによって示されまた要求もされているような変化を明らかにするものであった。

・はっきりとそれとわかるかたちで西田幾多郎やその他の「超越論者」たちに言及しながら、権田が、実際のところターゲットにしていたのは、当時一世を風靡していた「文化主義」の役割であり、1920年代の論議におけるその命令的な声音であった。

・彼の調査は、その多くが、例えば大都市に見られる浅草のような地区に、すなわち文化的な「領域」もしくは「範囲」に焦点を当てたものであった。子どもたちでさえ、権田のまなざしの前では、重要な対象となった。1917年という早い時点で、彼は一定の年齢層の子どもたちが、何回映画を見に行くかを明らかにしている。彼らが好むのは、チャーリー・チャップリンや日本における数多いその模倣者たちによる活劇や喜劇であった。実際に、権田は、子供たちが文字通り映画館を生きていたことを記録している。子どもたちは、そこで「ラムネ」を飲み、「キャラメル」や「煎餅」を大量に消費していた。彼らは、楽しみのために来て、そこで歓声を上げ、一瞬「我を忘れ」、日常生活のルーティンから逃れるのである。

・権田の調査では、宗教的もしくは哲学的な原理を当てはめるのではなく、「生きた世界」を調査することこそが重要であり、またその方法としては「生きた現実」を「インタビュー」することこそがふさわしかった。それは、彼にとって、「野の草の茎にも大宇宙の理法が表れているという」ことを意味した。彼の方法は、綿密なインタビューによって補足された、几帳面で正確な観察に立脚する厳密な経験主義であり、したがって、実際の社会調査を始める前に、一連の娯楽形態を選択することがまず必要であった。この技法は、過去と現在の娯楽の形態の共存、新しいものと古いものの混交、新しさのなかの古さ、日本的なものと西洋的なものとの共存の重要性を強調するものであった。それはまた、柳田国男の、過去と現在の習慣の混交という理解とも極めて近いものであった。

・なぜ、「唯物史観」の主唱者をもって任じる権田が、過去の封建的な時代やその生産様式に帰属する芸能や芸人の消失を悲しまねばならなかったのか、それを知ることは難しい。

(権田速雄氏のメモ「櫛田民蔵宛て書簡中の復古思想への回帰言明は興味ある表現だが、その理由は書簡を読み解くことにある」)