権田保之助ん家

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関東大震災直後に現れた娯楽の種々相

コロナ禍でもありネットで書籍を購入した。
「女性 4巻5号」(大正12年11月、プラトン社発行)である。
この中で、関東大震災直後の権田保之助の考え「非常時に現れた娯楽の種々相」が述べられているので紹介したい。

[以下、抜粋(一部編集)]
・このような状態に置かれて、何でもなかった平常の状態においては、何でもなく思われて、むしろ閑却されていた事柄が、初めてその意義が顕現された。それらの人間生活における枢要さがひしひしと人々の心に押し迫ってきた。米と水との有難味が、つくづくと感ぜられた。そして私の取り扱おうとする「娯楽」も初めてその意義が人々の心に明らかになった。

・「私は娯楽なき人生は死である。人間に食物と飲物とが必要であるが如くに」というのが、私の持論であった。ところが幸か不幸か、今度の大震で、それが正当であったことが明らかになったのである。
・大震後の十日位は、否な三週日位は、人々は「娯楽」ということなぞ考える余裕がなかった。いや余裕がなかったのではなく、考えることの意識以外であった。

・大震後既に十日にして、日比谷公園の有楽門あたりの賑わいは以前の東京にも一寸見られぬ図であって、日暮れ方から初夜にかけての同所は客種のちがった昔の銀ぶらを偲ばせるものがある。数百軒の露店の間で最も多いものは酒を売る店である。一升瓶の底を抜いて、その中に点じた蝋燭の灯の前には、娯楽封鎖を受けた男性の群が大コップ一杯15銭の冷酒に喉を鳴らしている。そして二十日頃には既に大道に、ジャケットを売る店の隣に焼け残った講談本や古講談雑誌の露店が幾つも開かれて瞬くうちに売れていく行くという有様であった。二十日過ぎに丸ビルが開かれて、そこの書店に集まった群れは第一着に軽い趣味的読物を漁りつくしたということである。震災当時は考えることさえ罪悪と思われた寄席や活動写真が十日に入ってそろそろと遠慮しながら興行をはじめたが、何処も此処も大入りを喜んでいるという有様である。

・人間の生活が平衡を失っている間は娯楽を思わないが、娯楽を思わない人間生活は既に平衡を失っているのである。そして、人間の生活が平衡を保とうとして行けば行く程、娯楽に対する要求が生じて来るが、またそれと同時に娯楽を得れば得る程、人間の生活が平衡に赴き、平衡に赴けば赴くほど専らに娯楽を要求するのである。

・単に娯楽を恵むという古い形式の社会政策的方策に堕することなく、民衆生活と娯楽との関係を極めて緊密に結び付ける様な、民衆生活の中に娯楽あり、娯楽によって民衆の復興的元気が振作される様な徹底的な根本策が樹立せらるることを期待している。