権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

シーボルト・ゼミナールに参加して

2021年11月15日(月)18:30からドイツ文化会館でシーボルト・ゼミナールが開催された。公益社団法人ドイツ東洋文化研究協会が毎月主催する、シーボルトが研究した様々なマターをテーマとする講座だ。


今回のテーマは「澁澤栄一とアレキサンダー・フォン・シーボルトのパリ万博と欧州旅行」で、シーボルトが残した日記その他からの題材を織り交ぜながらの講義でとても興味深い内容だった。徳川昭武ヨーロッパ親善旅行(1867年)に庶務・会計係として参加した澁澤栄一(27歳)が航西日記に記した言葉、新橋ー横浜間の鉄道敷設のため各国からそれぞれ多額の借金をしたこと、当時のスイス・ベルンのホテルの宿泊者名簿を調べたところ徳川昭武は「清水昭武(しみずあきたけ)民部大輔(みんぶたいふ)」と署名していたことなど、一般に知られていないことの紹介もあった。また、シーボルトに関して今でも分からないことが残っていること、誤解されていることもあることを知った。

 

学校の教科書で歴史を学ぶと、それが事実であるかのように思ってしまうが(私もそうだが。汗)、実際には分かっていないことが多く、新しい発見によって歴史の評価が変わることも(邪馬台国の場所、明智光秀の人物像など)散見される。固定観念を持たずに(決めつけずに)、再評価をすることの大切さを感じる。

 

権田保之助はドイツ語学者として活躍し、また渡欧しているので紹介したい。

[ドイツ語学者としての主な活動]
 1914年~1918年11月、独逸学協会学校(後の独協中学校・高等学校)の教員
 1918年 独逸文法書出版
 1919年 和独辞典・独和辞典の編纂
 1929年~月刊誌「独語研究」の創刊
 1929年~ドイツ語ゼミナール(中野ゼミナール)開校
 1937年 ゴンダ独和新辞典の編纂
 1941年~1945年頃 「權田 基礎独逸語講話」の出版、各講話の終了考査問題の批評採点(通信教育)

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ゴンダ独和新辞典

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ゴンダ独和新辞典

 

[渡欧日記より]
権田保之助は1924年大正13年)9月から1925年(大正14年)10月まで主にベルリンへ外遊している。日本人と娯楽研究会発行の「權田保之助研究 第4号」に権田保之助の外遊に関する記載があるので紹介したい。

[以下、「權田保之助研究 第4号」抜粋(一部編集)]
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1924年大正13年)9月、権田保之助は大原社研在外研究員として外遊の途についた。
9月14日神戸港日本郵船の加茂丸に乗船して出帆した。
其頃の欧州航路の船旅は随分日数がかかっている。
渡欧日誌を見ると、神戸を出てから門司、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボスエズ、カイロ、ポートサイドに寄港し、マルセーユに10月26日に着いている。
現在の航空機の旅では想像もつかないのんびりさでヨーロッパに近づく道程を満喫しながら心の準備も勉強も出来たことであろう。
マルセーユ上陸後、ニース、モナコモンテカルロを見物し、スペインのバルセロナマドリードを経由してボルドーからパリに入り、ベルリンに11月6日に到着した。
まず滞在中の向坂逸郎氏に会い、映画見物を始め、丁度その頃はじまっていた総選挙の模様を街に視察し、大原社研に報告する。
4月11日パリ経由ロンドンへの旅に出る。12日パリ着と同時に風邪をひき16日間もパリ滞在を余儀なくされてしまった。
全快後ロンドンに行き5月6日にベルリンに戻る。それから9月12日ベルリン発モスクワ経由で帰国の途に着くまでは、小旅行を除きベルリンでの生活が続いた。
ベルリンでの生活は、下宿を根城とした書生時代の東京の生活を再現した様な気楽な様子で、市民生活にふれ、娯楽を楽しみ、また在独の旧友と交流し、読書をし、手紙を書き、小説までも2編書いている。
またベルリン生活に触発されたのか、既刊の独逸語辞典の増補計画や大型辞典編纂の計画を立てたり、独逸語普及計画事業を外語時代の旧友と練ったりしている。
外遊中新聞社の依頼で「渡欧土産」と題する随筆を書き、行くさきざきで送稿し掲載された。帰国後これを校訂し、まとめて出版する予定で書き足しもしているが、遂に陽の目をみなかった。
ところで外遊の成果はなんであったのだろうか。
権田保之助の抱負は新聞記者に語っている様に「東京風のベルリンを根城に冬籠りをする考えであり、又パリを始めその他の都会へ旅行して活動写真や芝居など主とし民衆娯楽を見たいと思っています・・」「・・出来るだけ幅を広く、奥行きも深く見て廻りたいのです・・」と、大体その様に過したようだ。そしてその成果は次の2点に要約される様に思う。
①ドイツの映画政策に強い印象を受け、特に教育映画に深い関心と興味を持ったこと。
②ドイツの国情とその国民生活にふれ、ドイツ語普及意欲をかきたてたこと。
この2つが其後の権田保之助に大きな影響を与えたことを考えれば、外遊は1つの転機になったと言えよう。
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1920年代のベルリンは映画の都であり、文化の黄金時代で、ヴァリエテという劇場付きの酒場(今のショーパブのようなもの)がベルリンに160か所もあり、踊り、マジック、アクロバットなどのエンターテイメントショーが毎晩のように繰り広げられた。勤勉、実直と評されるドイツ人はショー好きなようだ。権田保之助もきっと、ヴァリエテで食事とお酒を飲みながらショーを楽しんだことだろう。