権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

権田保之助に関する海外論文

ここに、Etsuko Grothという人が1998年にウイーン大学で報告している論文があります。権田保之助を客観的に捉えていると思うので紹介します。

[以下、抜粋]
・権田保之助は大正期、昭和前半期に活躍した社会学者である。権田は第一次世界大戦前後、日本の都市に誕生した工場労働者階級の生活に目を向け、この階級を「民衆」と呼び、彼らの娯楽生活、娯楽文化を研究の対象とする「民衆娯楽論」を形成、展開していった。それまでの日本に於いて人々の娯楽あるいは余暇生活などは学問や調査・研究の対象外であるとされていた。しかし権田は活動写真(映画)、寄席、劇場を「三大民衆娯楽」と名付け、これを自らの研究テーマと据えた。また権田は活動写真こそがこの新しい労働者たちの生活文化を代表する娯楽であるとし、「東京市活動写真調査」(1917)を皮切りに様々な娯楽調査に携わり、当時の民衆娯楽の状況に関する数多くの作品を残した。この大正期こそが日本における余暇・娯楽研究の始まりであり、権田は日本の娯楽研究の先駆者の一人といえる。

・娯楽研究者であった権田には他方ドイツ語学者というもう一つの顔もあった。その業績は当時既に”権田のドイツ語”と知られ、多くのドイツ語学習教材や辞書の編纂にも携わっている。

・権田が手掛けた最初の娯楽調査は「帝国教育委員会」から委託された前出の「東京市活動写真調査」(1917)である。当時活動写真大隆盛の一方で活動写真の内容が青少年に悪影響を及ぼすとの声が強まり、娯楽が次第に社会問題として取り上げられるようになっていた。しかし権田が活動写真調査を通じて気付いたことは、活動の内容に示唆されて犯罪を犯す児童より、活動を見たいが為に窃盗などの犯罪を犯す児童の方がはるかに数多いという事実だった。つまり当時なされていたような活動の悪影響を取り除くためその検閲を厳しくするという処置は不適切であるだけでなく、娯楽の楽しみをも民衆から奪ってしまう危険性もあると判断した。権田は「娯楽の善用」をスローガンとし、民衆の娯楽文化を卑下し、これに対して何等かの政策を促そうとした当時の社会政策論者や知識階級たちに反発する立場を取った。また社会事実と直面せずに根拠の無い抽象論や理想論を展開する彼らを徹底的に批判した。権田はれっきとした調査結果に基づく実証的社会研究の重要性を訴え、自らの娯楽研究を展開させていく。

1921年大原社会問題研究所の研究員となった権田は当時東京に於ける民衆娯楽のメッカともいえた娯楽地浅草の調査に乗り出す。しかし権田の民衆娯楽論の頂点に立つはずであったこの「浅草調査」の編集は1923年の関東大震災を機に中断されてしまう。浅草は廃墟と化し、娯楽研究者の夢も消え去ってしまった。その後権田は一年にわたって渡欧するが、帰国後も「浅草調査」をまとめることもなく、権田の娯楽研究は空白の時代に突入する。

・ところが、1930年代にはいって権田は娯楽研究の論壇への再登場を果たす。しかしそれは実証的データにもとづいて民衆娯楽論を展開する娯楽研究者としてではなく、戦時下の文化統制のもとでイディオロギッシュな娯楽政策論者としての再登場であった。これが後に論議され、時に批判の対象となる権田の民衆娯楽論から国民娯楽論へという思想の転向の問題である。果たして権田は本当に「御用学者」と転落してしまったのだろうか。

・権田はとても家庭的な人間だったという。若き時代に森戸事件に巻き込まれ所謂エリートコースから外れてしまう苦い経験もしたし、また三・一五事件では大切な大原社会問題研究所の研究仲間たちが次々と投獄されるのも、また彼らの残された家族たちが苦労する姿をも目の当たりにしてきた。
大原社会問題研究所を守るために、自分自身そしてその家族を守るために、権田は隠れ蓑となる作品を書き続けなくてはならなかった。
そんな権田にとって民衆娯楽論から国民娯楽論への移行はまさに「苦悩の体験記録」なのである。

・1945年の敗戦とともに学問・研究の自由が保障されるようになった。しかし権田はかつての民衆娯楽論を再開・発展させることもなく、1951年静かにその生涯に幕を閉じた。彼が残した作品は日本の娯楽研究の歴史における道標であり、そこに描かれた当時の民衆娯楽生活の表情は今日もその時事性を失うことなく輝き続けている。