権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

「日本美術」への投稿と木彫「かつを」の作者

明治・大正時代に発行された月刊誌「日本美術」に権田保之助は何度か投稿しています。購入した「日本美術」に掲載されている投稿について紹介します。
また、「日本美術」の記載から、権田保之助が大切に持っていた木彫「かつを」の作者が判明しました。驚きです!

 

〇「国民性と日本美術」(第143号、明治44年1月)
(1)祖先を崇び家名を重んじる風
 ・家族主義即ち家を生活の本拠とし単位としていることは非公開的な「室内的趣味」を生じるに至らしむるもので、之に反して個人主義の国には公開的の芸術を生むのである。その室内的趣味の特色は如何、そは調和的美であり相対的美である。懸物のみを離してその趣をいうことは出来ない、額のみをもってしてその美を論じるは難い、屏風、襖の絵のみ抽き出してその味を知ることは無理である。懸物、活花、襖、机、手焙、敷物、急須、茶碗等残らず相待ち相倚ってここに渾然たる味を生じるのである。
 ・彫刻を見る時にも亦同じで、室内的趣味、調和的美、叙事詩的美という考えを忘れることが出来ぬ、これが日本彫刻をして西洋の彫刻とその趣を異にせしむる一原因ではあるまいか。

(2)現世的、現実的=楽天洒落
 ・日本人はかく現世的であり現実的である、その結果、極めて楽天洒落の風がある。
 ・日本人の現世的楽天的性情は風逸洒脱の味と静六動四の美をなすのであって、布袋和尚が絵画彫刻の題目として常に喜ばれるのは勿論、鳥羽覚猷の戯画に於ける、北斎の漫画に於けるは言うまでもなく、一體に日本の美術に単宗的趣味の溢れていることは到底否むことを得ぬ所である。翻って徳川芸術の粋たる浮世絵の発展は国民の現世的性情に関係なしと云い得ぬであろう。

(3)淡泊清酒
 ・淡泊清酒の国民性情はその美術の形式に高潔、爽快、淡泊の動的美を与え、その内容をして寂びの味を表しむるにいたる。

(4)趣味生活
 ・直覚的にその味に触れ、その感じに突入するものである。
 ・ぐるりと一なすりなすりたる達磨の絵に絶好の趣を感じ、粗々削いだる木彫の刀痕に会心の味を覚えるのである。

(5)保守的、形式的、真面目的
 ・礼儀を重んじ作法を尚ぶという風は、虚飾的外見美を去らしめて、美術をして地味な、渋い、ピカピカならざる、落付ける、高雅な、言外的な、含蓄的な趣あるものたらしめたのである。

(6)繊麗繊巧
 ・繊麗繊巧という性情は美術の題目をして人よりも動物、動物よりも草木を選ばしむるのである。

(7)自然愛好
 ・西洋芸術の源泉たるヘレニズムと日本趣味との間に面白き対象を発見するものである。一は歴史的事実であり一は自然神話である。而してこの自然神話の側面を調べる時にはその国民の自然に対する真情を探ることが出来ると思う。
 ・日本人は自然を愛す、その結果美術の題材を多く自然物に探り、更にその題材を凡て自然物の一部として景色的に描写することに力める傾向がある。


〇「作者の心理と作品の傾向」(第153号、明治44年11月)
(1)作者の心理及び作品の傾向という意義
 ・人格は実に人間活動の第一原理なり、人格は即ち人格也。
 ・此の人格というもの内容を形成するものは、各人の過去経験の総和なり。
 ・藝術家が藝術品創作の一時期を割してこれを考えるに、藝術家の「人格」は創作の静的基礎を成せるものなり。而してこの静的基礎が、環象もしくは心象に接触して動的のものとなり、藝術創作の心的過程に於ける背景の位置より抜け出でて、その舞画上に活躍し、具象性を供うるにいたるや、吾人はこれを呼んで創作家の「態度」となす。斯の如く藝術家の「人格」という静的のものが、動的にして具象性を有する「態度」となる、吾人はこの過程を指して「作者の心理」と名けんと欲するなり。
 ・時々刻々に於ける斯かる藝術家の態度の軌跡を、作者の創作的傾向といい、これの材料に則して外部に表わされしものを「作品の傾向」という。

(2)藝術品の意義
 ・藝術品の見る所は、実に真面目なる人格の流露にありて存す。即ち技巧の中に作者の霊妙なる心理に触れんとするにあり。

(3)新しき批評的態度
 ・吾人の持する批評的態度は、藝術品の中に作家の心理の消長を探らんと欲するもの、詳しくは、先ず作品の傾向に接して作者の藝術的人格を知り、次いで作者の創作的態度を窺い、以て作者将来の道程に言及せんと欲するもの、これ吾人が自ら新しき批評的態度として許さんと欲するものなり。

〇「鎌倉時代と其の藝術に就いて」(第156号、明治45年2月)
 ・鎌倉時代の芸術は一言以てこれを覆えば自由活動的内容を写実的外形に盛りしものと言わんか。


〇「現代の木彫と作家の三態度」(第165号、大正元年11月)
 ・自分は芸術というものも作家の態度によって定まるものだと考えたい。作者の芸術的人格が創作の刹那に流露するところ、そこに作家の創作的態度が表れるもので、これが芸術の中心であり、芸術が人を動かす根元であるからである。
 ・第一のグループ「自己の成す所を知り、自己の赴く所を解し、自己を信頼して自己を表さんとするもの」
 ・第二のグループ「自己の成すべき処を自覚せず、自己の赴くべき所を知らず、即ち表わすべき明かなる自己を有せざるも、然かも如何にかして自己のいる所と自己の帰趣とを拓かんとするもの」
 ・第三のグループ「自己の成すべき所を自覚せんとにもず非ず、自己の赴く所が何処なりやを頓着するにも非ず、表わすものが自分のものに非ずして然かも少しもこれを苦とせずただ安んずるもの」

 *第一のグループで「川上澹堂」氏を以下のように紹介している。
  自己を信頼することの甚だしい作家である。技巧とか内容とかいうものは頭から問題になって居ないようである。知のみに非ず、情のみにも非ず又意志のみにも非ざる、之れ等が皆、渾然として溶けて流れた人格的の刹那に、人生の高調を感じ其処に芸術を味わっているのではあるまいか。であるから氏の態度は他の人と異なっている、従って哲学が違うのである。木彫は置物を作るものだという伝説に風馬牛であるようだし、木彫は軽妙な味を表さなくてはならぬものだという信仰にも無頓着の様である。ただ刹那の自己を忠実に掴みたいという努力があるばかり。氏を評して無鉄砲に新しがらんとする作家であるとなすものは到底氏の作品と氏の態度とを解し得ない人だと思う。氏に取りては新しいとか古いとかいうことは問題ではないらしい、刹那の気に適うものでありさえすれば何でもよい。新しがる必要もなければ、又古いことを誇る必要もないらしい。

 

 権田保之助が大事に持っていた木彫「かつを」の下面に書いてある作者名がずっと読めずにいましたが「澹堂作」であることが分かりました(間違いありません)。

川上澹堂(邦世)(1886~1925年)は、岡倉天心を会頭とする日本彫刻会(日本で最初の本格的な彫刻団体)に所属し、高村光雲に師事しました。

 

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木彫「かつを」 川上澹堂(邦世)

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木彫「かつを」下面 「澹堂作」


また、木彫「かつを」の作者、川上邦世も「日本彫刻会評」を投稿しているので紹介します。
 ・初めから置物を作ろうと思ったら、それでいいから、置物を作ればいいのだ。それだのに置物を作りながら、色々の芸当をしようとすると、変てこな物になってしまうのです。
 ・むやみにまわりから色々とかれこれ云わなくても、だまって一人で一人の考えだけのものを作った方がよっぽど立派なものが出来るわけなのです。   
 ・僕の改良とか、進歩とか云う事は、妙な変てこな物の出来上る事が大変にいやですから、必要がなくなってしまうのです。

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日本美術 目次(大正元年11月発行)

 

〇「文展の彫刻と時代精神」(第166号、大正元年12月)
 ・世間では今年の文展の彫刻は著しい進歩を成したと称賛している。成る程、人はそう見るかも知れぬ。けれど吾人は怪しまざるを得ない。彫刻の進歩ということは、形が整っているとか、居ないとか、綺麗に出来てるとか、出来ないとか、手法が鮮やかだとか、でないとかいう軽業を評するようなそんな問題ぢゃないのだ。竹箆の使い方が上手だとかいうので彫刻の進歩が望まれるならば問題はまことに容易である。けれどそうは行かぬ、問題は余程六つ箇敷くなる。現代の空気を吸っている芸術家がその芸術品の中に真剣に生まれているかどうかということによって定まる。

ウイリアム・モリスの美術工芸運動と権田保之助の思想

権田保之助は、デザイナー、思想家、詩人であるウイリアム・モリス(1834~1896年)の影響を大きく受けたと考えられます。卒論「価値の芸術的研究」においてもウイリアム・モリスの説を引用しています。
ここでは、ウイリアム・モリスの美術工芸運動と権田保之助の思想の関連性に関して記載します。

イリアム・モリスというと鳥や植物をパターンにした壁紙デザインを思い浮かべる方が多いのではないでしょか。私もその1人で、1989年に新宿の伊勢丹美術館で開催されたウイリアム・モリス展で見たステンドグラス、壁紙、織物、家具、本の挿絵を見たのが始めでした。その時に購入したカタログにはウイリアム・モリスの紹介として芸術の他に、労働および社会主義に関する記載があります。当時は芸術しか興味がなかったのですが、労働および社会主義に関して興味深い記載があります。

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ひなぎく(1862年)

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ジェフリー・チョーサー著作集(1896年)

[ウイリアム・モリス展カタログ]
(「ウイリアム・モリス:芸術、労働そして社会主義」ウイリアム・モリス・ギャラリー館長 ノラ-・C・ギロウ)
 ・モリスの全活動にとって基本的なことは、芸術と社会は不可分に結び付けられているという信条である。・・これはとりわけ、あらゆる社会の日常生活につながっていて直接影響を及ぼす建築と装飾芸術においてあてはまった。
 ・機械化と大量生産は労働の本質だけでなく、生活様式全体にも影響を与え、台なしにしてしまった。
 ・彼は社会主義を、主として単なる唯物論に関連するものとは決して見なさなかった。たんに生産「手段」の管理を少数派の手から全社会の所有に移す、ということ以上に重要な目的を社会主義は持っていた。その主要な目的は生産の「目的」の管理を社会全体の手に委ねることであった。
 ・「彼(労働者)の前にある充実した人間らしい生活 -美を知覚し創作すること、すなわち本当の喜びの享受が、人間にとって日々のパンと同じくらい必要であると感じられる生活、誰からもどの人間集団からも、極力遠ざけねばならないより大きな妨害によって以外は奪われることがない- そういう生活の真の理想を設定するのが芸術の本領である。」社会主義の目的とその望まれる結果をこのように広く解釈した点で、モリスは彼の同志たる社会主義者とは違っていた。
 ・要するにモリスは、芸術的な生活と政治的生活、喜びと労働、芸術と一般の生活を首尾よく再統合する唯一の方法として、社会主義を見ていたのである。

 


[「ウイリアム・モリスの遺したもの」川端康雄著 岩波書店
 ・ウイリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動(美術工芸運動)
  英国の近代化・産業化に伴う社会の急激な変化(人工の都市集中、機械による大量生産)に対して、伝統的な手仕事の復興、より素朴な生活様式への回帰、家庭の日用品のデザイン向上をめざす工芸の革新運動だった。
 ・書物の読みやすさ(機能)と美しさ(装飾)との根元的な一致をめざした。機能と装飾を背反する原理とみるのではなく、両者の一元的な把握を指向した点は、本造りに限らず、モリスの装飾芸術の活動全体を貫くものであった。

 

 

[「ユートピアだより」ウイリアム・モリス著 松村達雄訳 岩波文庫
 ・芸術即生活、生活即芸術である。芸術的創造の喜びなくして真の生活はあり得ない。また、生活に根ざすことない芸術的創造は真の芸術ではない。そして人間の労働を楽しくし、休息を実り豊かなものとすることにこそ芸術の真の目的がある。

 

 

[「美術工芸論(権田保之助著)について」](工芸美術誌『かたち』主幹 笹山 央)
 ・美術工芸の中には「(日常生活の需要に応ずる)実用」と「芸術作用」の2つの要素があり、その両要素を「抱合」せしめる工業活動が美術工芸である、というのが権田の定義である。
 ・「実用と美の内在的抱合」という美術工芸の存立についての権田の理論的ビジョンは、生産・労働と遊戯・娯楽とを同値的なものとして捉えようとした権田の民衆娯楽論の理論的ビジョンと、構造の上で相似であることに留意したい。
 ・権田の美術工芸論は、今日の目から見れば、実用と美とは互いに相容れない要素であるとする近代美学に対する批判とその超克の企図を含んでいる。同じように権田の民衆娯楽論は、生産・労働と遊戯・娯楽の近代主義的な二元論の批判とその超克を提唱するものと読める。
 ・論中に引用されているモリスの言葉『芸術の使命は人間の労働を幸福ならしめ、其の間暇を有効ならしむるにある』という労働享楽主義を、權田自身の思想的核として受け継いでいることは確かである。

 

 

[権田保之助の思想]
 ・卒論「価値の芸術的研究」(明治41年)
  労働と遊戯とは一段高き階段において統合され、機械は新しき芸術品製作の源となり、人生は一大芸術と化し、人間社会の森羅万象は一大芸術品と化さんとす。

 

 ・櫛田民蔵への書簡(明治44年12月16日)
  「かつを」の木彫に対する僕という復古主義の男を御想像致したく候。

 

 ・「美術工芸論」(大正10年)
  『労働』と『遊戯』とは全く縁を切って仕舞った。労働は趣味と全然無関係・没交渉となり終った。一刀を加えては楽しみ、一撃を与えては其の製作の過程を喜んだ時代の面影は失せて、誰れの為めに製作するという考、自己の満足の為めに労作するという気持は去って、唯だ資本家の営利の為めに労働するという状態となった。(緒論)
  人間は働いて而して後に享楽するという今日の不徹底なる二重生活のギャップを脱して、人間が働くということが即ち人間が楽しむということ其れ自身となり、人間が生くるということが享楽其れ自身となるのである。(第2編第5章)
  唯物史観には或る程度までの真理がある。然しながらそれと民族の有する人生観とか、民族性とか(其の様なものを認めるのが間違であるというならば、それは問題ではないが)との関係に至っては、なお取り残されているものがある。(第3編第1章)

 

 ・「 関東大震災直後に現れた娯楽の種々相」(「女性 4巻5号」大正12年11月 プラトン社発行)
  「私は娯楽なき人生は死である。人間に食物と飲物とが必要であるが如くに」というのが、私の持論であった。ところが幸か不幸か、今度の大震で、それが正当であったことが明らかになったのである。・・単に娯楽を恵むという古い形式の社会政策的方策に堕することなく、民衆生活と娯楽との関係を極めて緊密に結び付ける様な、民衆生活の中に娯楽あり、娯楽によって民衆の復興的元気が振作される様な徹底的な根本策が樹立せらるることを期待している。

 

権田保之助が復古主義者だったこと、民衆娯楽論において生産・労働と遊戯・娯楽とを同値的なものとして捉えようとしたこと、娯楽は人生において必要不可欠なものと捉えたことは、ウイリアム・モリスの思想によるものなのでしょうか。

 

新型コロナウイルスの影響で演劇や演奏会、展覧会などの芸術活動や旅行などの娯楽が自粛される中、芸術や娯楽によって与えられる感動や元気、気晴らしの有難みを痛感しています。また、リモートワークの導入によって、もはやワーク・ライフ・バランスではなく、ワークとライフの一体化が図れるようにも感じています。ウイリアム・モリスや権田保之助の考えは、現代において必要なものかも知れません。

権田保之助と櫛田民蔵の書簡

権田保之助の次男速雄氏が書き写した「権田保之助から櫛田民蔵への手紙(写)」、ネットで購入した書籍「櫛田民蔵・日記と書簡」がある。
今日は権田保之助の命日。両者(抜粋)を並記し、また権田保之助の著書「美術工芸論」のポイントを記載する。

 

[「権田保之助から櫛田民蔵への手紙(写)」と「櫛田民蔵の書簡」(抜粋)]
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・明治44年11月9日(民蔵→保之助)
 日本美術早速お送り下され有難く感謝致します。此の貴重な雑誌を送ってもらって只だ「感謝致します」で済ますのは何だか物足りない、めくら滅法なことを云って笑われるかも知れないが、他の人ではない、何でも思う存分に感じた事を書いて返礼に代えたいと云う気になりました。・・

(一)序言の部につき
(作者の心理及び作品の傾向という意義の部)
(イ)兄は「人格とは知情意の三作用より成る」との言を以て呑舟の魚を逸したものというけれど僕はそうは思わぬ、この言は知情意という精神活動の三方面を知ることによりこの三方面が構成する単一の経過的全体全体たる人格を知ることが出来るという意味であって決して分割的の見解でなく総合的の見方である。兄のいわゆる「人格とは人格なり」を無視してはいないと思う。・・
(ロ)兄はいわゆる人格とは人格也、第一原理なりと断じて尚「人格の内容は各人の過去経済の総和なり」と云い、しかも「その成立せる結果の方面なり」「人間活動のある一時期を切り離してこの間における人格の地位を考えればこれは自発的の原理」であるという、さすれば、人格とは過去経験の総和なりというも「第一原理」なりというもそれは見方の争または言葉の争に過ぎない、・・

(藝術品の意義の部)
(ハ)作者が或物を創作せんとして或る観察を試みる時は既に技巧の問題は同時に(殆んど)起っている。・・思うに芸術上技巧とは矢張り人格活動の発現である。・・

(新しき批評的態度の部)
(二)以上述べ来りし所より、兄の「新しき態度」なるものは極めて曖昧なものになった。又「技巧により藝術品を見るはよし、而も之れは其の技巧が真面目に人格を流露せりや否やと云う意味にて言う也・・」は無用の弁となった。・・

(細評の部)
 これは全く解らない。実物に接しない内は。兄は極端に「人格」を主張するの結果、彼の印象批評を一文の価値なき如く云うけれども僕は反対だ、批評と云う意義から考えても此の印象批評と云うことは正当である。・・

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[日本美術 第153号(明治44年11月発行)]
作者の心理と作品の傾向(抜粋) 権田保之助
(一)序言
(1)作者の心理及び作品の傾向という意義
 ・人格は実に人間活動の第一原理なり、人格は即ち人格也。
 ・此の人格というもの内容を形成するものは、各人の過去経験の総和なり。
 ・藝術家が藝術品創作の一時期を割してこれを考えるに、藝術家の「人格」は創作の静的基礎を成せるものなり。
  而してこの静的基礎が、環象もしくは心象に接触して動的のものとなり、藝術創作の心的過程に於ける背景の位置より抜け出でて、その舞画上に活躍し、具象性を供うるにいたるや、吾人はこれを呼んで創作家の「態度」となす。
  斯の如く藝術家の「人格」という静的のものが、動的にして具象性を有する「態度」となる、吾人はこの過程を指して「作者の心理」と名けんと欲するなり。
 ・時々刻々に於ける斯かる藝術家の態度の軌跡を、作者の創作的傾向といい、これの材料に則して外部に表わされしものを「作品の傾向」という。

(2)藝術品の意義
 ・藝術品の見る所は、実に真面目なる人格の流露にありて存す。
  即ち技巧の中に作者の霊妙なる心理に触れんとするにあり。

(3)新しき批評的態度
 ・吾人の持する批評的態度は、藝術品の中に作家の心理の消長を探らんと欲するもの、詳しくは、先ず作品の傾向に接して作者の藝術的人格を知り、次いで作者の創作的態度を窺い、以て作者将来の道程に言及せんと欲するもの、これ吾人が自ら新しき批評的態度として許さんと欲するものなり。

(二)細評
 ・絵画彫刻展覧会出陳の木彫の批評を試みんとす。・・
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日本美術

・明治44年12月1日(民蔵→保之助)
 独り朝から市内をぶらつき岡崎の浮世絵展覧会へはいって見た、好いものがあった、只だ兄と一緒でなかったのを憾みとする。先刻其の名残に絵ハガキを一組買って送った。
 ・・人工を加えた自然、文明の果樹園は年末の八百屋に見ることが出来る。然し又た岡崎近傍の売地の広告と新建の増加とを見ると、彼の復古論者が自然の枯渇をなげくのも無理はないと思われる。然し更に又た其の枯渇から新たな美が生れた事も忘れてはなるまい。それにつけても羨ましく思われるのは彼の此等何れを見ても何の矛盾も感ぜず、能狂言を見た目で活動写真を見、古土塀にたてられた赤ペンキの広告に一顧も払わない所の現代人の現代人と古代人の古代人とである。然し又た翻って思うと物質は不滅、人は只だ其の時の形態を変するのみと観した其の時々の趣を眺めて行くのも捨て難い生活ではなかろうか?・・

 

・明治44年12月2日(保之助→民蔵)
 浮世絵の絵葉書 有難く頂戴しました。
 実の所 僕にはまだ浮世絵の本当の妙味が分からないのです。色彩のあまりに強烈な所や、特に歌麿の絵に見るお化けの様な女や、が僕には何だか縁遠い様に感じられてならないのです。
 しかし、僕は浮世絵というものに、そして日本には純正美術なるものが、皆応用美術化されて真正の意味の純正美術なるものの存在を殆んど見ることが出来ないということに、僕は深い意味を覚ゆるのです。

 

・明治44年12月16日(保之助→民蔵)
 「かつを」の木彫に対する僕という復古主義の男を御想像致したく候、マルクスの嫌いなるも無理なしと御容赦いただきたく、美学の書物をおそれるを蛇や蝮の如く思い候も御肯首いたしたく候。

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木彫(かつを?)

・明治44年12月18日(民蔵→保之助)
 此の手紙を書き終った処へ君からの御手紙を藤代先生の手から受取った。僕が封を切ると先生が読みはじめた。そうして僕よりも先きに読んで終って我が意を得たと云わぬばかりに喜悦満面である。
 ・・兄の所謂復古趣味否「兄の趣味」に向ってどれ丈快感を催すか知れぬ。寧ろ僕はマルクスなどを兄に読んでもらい度くない。・・

 

・明治45年5月21日(民蔵→保之助)
 ・・国民性論を提唱し今や唯物史論を批判して価値論を卒業し候兄は進んで活動写真の御研究をはじめられる趣、学会の慶事此上もなく候。小生は科学を以て価値の否定となし宗教を以て価値の肯定と思惟すると同時に唯物史論を以て価値否定論となし国民性論を以て価値肯定論と信ずるものに御座候。
 前者は所謂因果論に立ち後者は所謂無因論に立つと信ずるものに候。故に小生の見地よりすれば国民性論を徹底し唯物史論を批判したる兄は自ずと価値論を構成するものに有之兄の卒業論文の価値論は此の意味に於てしかしかの内容を有するにあらずやなど思惑在り候へ共、是は先頃御知らせ被下候項目により御察し申上候丈にて本物に接し候へば案外全くの見当違なるやも不知候。
 ・・思うに国民性を論じ活動写真を論ずる兄は、他の場合に如何の御仁にもあれ、其の思想を生むの人僕の所謂人格の人たるは些の疑なき所と存申候。・・

 

・明治45年6月19日(保之助→民蔵)
 小生は個人主義よりして美学を修めんといたし・・
 「価値とは人が主観的に現在の刹那に於て享楽する物の作用より生ずる性質なり」
 =「価値は遊戯化の心的結果なり」といい、更らに
 「文明とは遊戯化の歴史なり」と申候

 

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[「美術工芸論について」(抜粋)](工芸美術誌『かたち』主幹 笹山 央)
・美術工芸の中には「(日常生活の需要に応ずる)実用」と「芸術作用」の2つの要素があり、その両要素を「抱合」せしめる工業活動が美術工芸である、というのが権田の定義である。
・「実用と美の内在的抱合」という美術工芸の存立についての権田の理論的ビジョンは、生産・労働と遊戯・娯楽とを同値的なものとして捉えようとした権田の民衆娯楽論の理論的ビジョンと、構造の上で相似であることに留意したい。
・権田の美術工芸論は、今日の目から見れば、実用と美とは互いに相容れない要素であるとする近代美学に対する批判とその超克の企図を含んでいる。同じように権田の民衆娯楽論は、生産・労働と遊戯・娯楽の近代主義的な二元論の批判とその超克を提唱するものと読める。
・論中に引用されているモリスの言葉『芸術の使命は人間の労働を幸福ならしめ、其の間暇を有効ならしむるにある』という労働享楽主義を、權田自身の思想的核として受け継いでいることは確かである。
・「『労働』と『遊戯』とは全く縁を切って仕舞った。労働は趣味と全然無関係・没交渉となり終った。一刀を加えては楽しみ、一撃を与えては其の製作の過程を喜んだ時代の面影は失せて、誰れの為めに製作するという考、自己の満足の為めに労作するという気持は去って、唯だ資本家の営利の為めに労働するという状態となった。」(美術工芸論 緒論)
・「唯物史観には或る程度までの真理がある。然しながらそれと民族の有する人生観とか、民族性とか(其の様なものを認めるのが間違であるというならば、それは問題ではないが)との関係に至っては、なお取り残されているものがある。」(美術工芸論 第3編第1章)

・「・・人間は働いて而して後に享楽するという今日の不徹底なる二重生活のギャップを脱して、人間が働くということが即ち人間が楽しむということ其れ自身となり、人間が生くるということが享楽其れ自身となるのである。」(美術工芸論 第2編第5章)

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美術工芸論

 

「映画鑑賞日記」と「独語研究」

ここに権田保之助の昭和4年3月22日から7月2日までの「映画鑑賞日記」(写)がある。次男の速雄氏が書き写したものである。
昭和4年4月から毎月発刊された権田保之助主幹の「独語研究」と見比べると面白い。
今日は権田速雄の命日。本稿を権田速雄に捧げる。

 

[「映画鑑賞日記」(写)全文]
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・昭和4年3月22日(金曜日)
本当の久振りで、浅草へ出掛けた。
文部省を夕5時近くになって出て、一寸有隣堂へ立寄って、6時近くに浅草へ。
先づ「松竹座」へ入った。”King of Kings”を見るのが目当てであったが、入ったらその映画の末端を映写している所、所が馬鹿々々しい程の大入で、何時まで待っていても座れ相にない。そしてその”King of Kings”に一巡するまでには大変である。つまり惧れをなして飛び出した。
『東京館』へ入る。「モン・パリ」を目当てに或る期待を抱いて 全プロ、
 第三大学生活
 興太捕物記
 モン・パリ
を立通した。しかし「モン・パリ」には失望した。
とうとう全部立ち続けで随分疲れた。
帰宅したのが11時すぎ。

 

・昭和4年3月25日(月曜)
速雄が2年の修業を祝い、春休みの休養の為めにと、速雄と照雄とを伴れて、午後1時『シネマ銀座』へ来た。
・・・『シネマ銀座』という館へは、その前身の今春館時代からも、今回が初めての入場である。
「ザンバ」を見ることが自分自身の目的でもあり、子供等にもそれを見せるつもりだった。
そして始めから終りまで全番組を見た。即ち
 キートンの大学生
 ロイドのスピーディ
 ザンバ
速雄も照雄も大喜びであったが、4時間近い長い映写には疲労を感じたと見え、肝腎の「ザンバ」に至っては少々飽きた様子。
「ザンバ」はしかし教育映画として優れたものであると云い得よう。

 

・昭和4年3月27日(水曜)
矢張り、速雄と照雄との為めに、子供の芝居を見に、明治座へ出かけた。雨にぬかった道を遠く久松町まで、電車で行くことは閉口した。
途中で降参して、とうとうタクシーで乗り付けた。
速雄は前に一度 芽生座の公演を昨年秋に朝日講堂座で見たので、芝居の経験はあるが、照雄は始めてとて不思議がっていた。
2人とも第三の「天下太郎諸国漫遊記 海洋冒険の巻」が一番に気に入った。いや満座の可愛らしい観衆は何れも皆、これが最も面白かった様だ。
第一の「実を結ばぬ椿」は哀調を帯び過ぎて不向き。
第二の「ほほ笑み」は余りに教えようとし過ぎて失敗。
第四の「玩具店」なぞは先づまづ無難のものか。

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シネマパレス



・昭和4年3月29日(金曜)
雨降りしきる中を、松屋で用達しをすませて、午後1時前に『シネマ・パレス』へ来た。
それは「カリガリ博士」を見度い為めである。「カリガリ博士」は今までよくよく縁がなかった。
大正十年 浅草調査をした其の時にキネマ倶楽部で封切されていたのを僅か二三分間見た丈けで、遂に機会を逸し、外遊して伯林で夏(1925年の)Tauentsien-Palastに上映されていたのに、これも遂に見逃して仕舞った。
所が今度「独語研究」を創刊して其創刊号の巻頭には口絵として「カリガリ博士」の映画の一場面を特に載せた。
その雑誌は昨日、見本が一部届けられたのである。
其う云ういきさつでどうしても今度こそ見て置かねばならぬ映画だったのだ。
カリガリ博士」は、何としても優れた記念である。
「殴られる彼奴」もいい映画だ。
エル・ドラドー」は一番感心され得なかった。

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カリガリ博士



・昭和4年4月9日(火曜)
午すぎ中野の宅を出て、浅草へ赴った。・・・いろいろ考えて、一周に一日は「映画デー」を設ける必要があると思い、毎週火曜日を特にそれに当てようかと思い立った。
今日がその実行の第一回!
『松竹座』に入る。満員。
 カナリヤ殺人事件
 剣劇レビュー 慶安二刀流
 メトロポリス
メトロポリス」を見るのが目的。しかし、その技巧は兎に角素晴らしいものだが、内容は余り豪いものではない。
尤も資本主義文化の頂点を描写せるものとしては、比較的に面白いものであろう。
『電気館』へ入ったが、時間の都合が悪くて「鉄仮面」は見れなかった。

 

・昭和4年4月16日(火曜)
速雄が風邪を引いて熱を出したので気懸かりの為めに、映画デーを中止していたが医師が見えて大したことも無いと聞いて、夕飯をすませて、牛込館へ行った。
牛込館へは今回がはじめて、それは「都会の哀愁」を見んが為めである。
ヴァレンチノの「荒鷲」の後半から見た。
 荒鷲
 都会の哀愁
荒鷲」は、大したものではなく唯だヴァレンチノの追憶のみ、「都会の哀愁」は面白いと思った。
後は見ずに館を出て、久し振に神楽坂通りを歩いて帰った。

 

・昭和4年4月23日(火曜)
兼て浅草で見落した『キング・オヴ・キングス』を見ようとしていた所が、成子不二館に上映されると知って、ぶらりと出かけた。
昼間の映写とて、お客は少なく極めて閑散、一種のノンビリとした気持ちになる。
浅草あたりには見られぬ一種の味がある。しかし同時に随分呑気者のような自嘲的な気分にもなる。
番組の抑々最初から最後までを見た。いや開演まで三十分近くも待たされたのは近頃笑止であった。
天然色喜劇という変なものは別として、
 日活現代喜劇「私と彼女」
 キング・オヴ・キングス
前者は大したものではなく、後者は大物でも、日本には向くまいと思った。

 

・昭和4年4月29日(天長節
小学校で天長節の式が終って(自分も其式場に参列していたが)速雄、照雄の両人を伴れて、むしろそのお伴をして、歌舞伎座へ松竹の子供の芝居を見に出かけた。
前月一回出かけていて芝居を見ることに慣れたので、両人とも今度は余りに驚異しなかった様子。それで段々と鑑賞する態度が出来た様である。
二人とも大喜び。
出し物の中では矢張り『天下太郎諸国漫遊記』が一番に小さい観衆に受けていた。しかし今回の節は前回と比して劣っていた。
其他の出し物三種は前回の夫等よりも大変に揃っていていいと思った。
唯だ最後の『櫻の歌』は前回の切りの方が面白く思われた。

 

・昭和4年5月21日(火曜)
久し振りに浅草へ行って、先づ松竹座へ入った。
ウファの作品を見ようが為めである。
 ワルツの夢
大して傑出した映画ではない。寧ろ重ぼったい感じの残る餘り好かない映画である。
ただ、Wienの街の背景だけはすばらしく心持がよかった。
その後で『開国文化』というレビューを見た。
此の方が無性に面白かった。
松竹座を出て、何の気なしに富士館へ入る。
別に何を見ようというあてがあった訳ではない。
そして『逆転』の後半を見た。
日本映画の鮮やかな撮影振りと、テーマの取扱い方の変化とを感じた。

 

・昭和4年6月8日(土曜)
予てから櫛田君と大内君とが『伯林』が見度いという希望があったが、其後、この映画が少しも上映されずにいた。
所が今度シネマ・パレスで上映されることになったのを知って、早速両君に報じて、今日の晝間興行に出かけようと手筈を定めた。
然るに櫛田君の都合が悪いので中止した。(尤も大内君は単独で出かけたのであるが)
そして居ると、夕方櫛田君が見えて都合が付いたからこれから出かけようと誘いに来たので、大急ぎで出かけた。
『伯林』はもう半分ばかり済んでいた。その後で
 市俄古(chicago)
を見た。面白いと思った。
帰りに藪で蕎麦を食べて帰った。

 

・昭和4年6月16日(日曜)
速雄と照雄と前隣の司ちゃんを伴れて、午後4時半開演の芽生座の芝居を見た。
朝日講堂へ行った。
少し早目であったが、しかし晝の部の公演がまだ終らずにいた。待って待って暫く、6時近くになってはじまった。
子供の為のものでは、殊に時間を十分に注意してくれねばならぬと思う。
一番目の一幕物「黄菊と白菊」とは可愛らしいもので、先づ無難なもの。
しかし二番目の主なもの、即ちストリンドベルヒ作『ペエアの旅』に至っては、全く感服が出来なかった。
それは「子供の為め」にはあまりに難しい内容を有ったもので、築地あたりで大人に見せても、十分その精神がのみ込めるものが餘り多くはあるまい。
馬鹿なものを選んだものだ。
それに時間が甚しく予定よりも遅れたので、三幕まで見て後は止めて帰った。
それから夕飯を食べて帰ったら9時半。本当に懲り懲りした。
二度と行くことに躊躇される。

 

・昭和4年6月19日(水曜)
文部省の帰りに、有隣堂に寄り「独研特別号」の校正の打合わせなぞを済ませて、神田の店へ一寸立寄り、急いでシネマ・パレスへ出かけた。
午後6時半頃。それはゲオルグ・カイザーの『朝から夜中まで』を見ようと思ってである。
所が行って見るともう『朝から夜中まで』は殆んど終らんとしていた。それだから何とも分からなかった。
 朝から夜中まで
 思い出
『思い出』を全編見終わって帰った。

 

・昭和4年6月24日(火曜)
朝10時半頃家を出て浅草へ行き、松竹座へ入った。
流石にすいている。ウフア社の『世界大戦』を見る為めで時間を測って出かけたのだ。
 世界大戦
好箇の記録映画であって、同時に記録映画が又興行映画としての位置を獲得する分野の一つを示差したものであると云い得る。
後で『サモア土人の踊』を見て、急いで浅草を去り、文部省で
 マッターホルン
を見た。山の映画として心持のよい映画であり、『聖山』を見たとは又別な興味を与えてくれた。
しかし『聖山』の方が力が強いように思われた。
今日は独乙映画デーであった。

 

・昭和4年7月2日(火曜)
正午浅草へ着き、先づ腹を作るべく鮨清に入ってすしを食べてみると、折柄ラジオのニュース放送が始まって、「田中首相辞表捧呈一大命民政党浜口総裁に下る」
という報が伝えられ、居合わせたお客様が一斉に拍手した。
先づ富士館へ入って
 日活行進曲
を見た。満員の中に立ち続けて疲れた。
それから電気館へ入って、
 バグダットの盗賊
を見た。綺麗な映画で、技巧もうまい。

 

・昭和5年5月22日~5月28日
「邦楽座プログラム」のみあり。
 若き翼
 浮気登校
 女秋園

 

・昭和5年7月2日
 カジノ・フォーリーレヴュー
 (第24回公演)
 「プログラム」のみあり。
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[「独語研究」に掲載された映画関連の内容を抜粋]
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・創刊号(昭和4年1月1日発行)
 口絵に映画「カリガリ博士」の写真を掲載。

 

・第一年第五号(昭和4年8月1日発行)
 編集後記に「私は7月8日の月曜から一週間ばかり、教育映画状況視察という文部省の公用で、静岡、名古屋、金澤、富山と一巡し、途中加賀の片山津温泉で温泉情調を味って来ました。」と記載。

 

・第三年第七号(昭和6年7月1日発行)
 編集後記に「忙しいと云えば、此頃は文部省の推薦映画の事務の関係で、映画の審査によく出かけます。殊に毎火曜日は私の映画デーで、必ず浅草へ出かけることになっています。間の抜けた顔をして映画に見とれている私を発見されても、どうか笑わずに下さい。」と記載。

 

・第四年第二号(昭和7年2月1日発行)
 編集後記に「其の間に一周に少なくも一度は映画の視察。一昨年も、午後一時半頃から浅草へ出かけて、大勝館、富士館、日本館と順繰りに出たり入ったりして、バンクロフトの「鐵壁の男」、千恵蔵の「國土無双」、キートンの「紐育の歩道」を見た。しかも其の所要時間、僅かに四時間。」と記載。

 

・第四年第八号(昭和7年8月1日発行)
 編集後記に「此の十二日に大阪で大原研究所の月次講演会で盆踊撲滅論を一くさりやって急ぎ帰京して、早速ゼミナールの講義に隔日に出たり、お盆の浅草で「チャンプ」「ミラクルマン」「旅は青空」「笑う父」等々を見たりした私も、来月は早々、上総は鹿野山の下、大貫の海岸へ出かけて、ボチャボチャやって来ようと思っています。」と記載。
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関東大震災直後に現れた娯楽の種々相

コロナ禍でもありネットで書籍を購入した。
「女性 4巻5号」(大正12年11月、プラトン社発行)である。
この中で、関東大震災直後の権田保之助の考え「非常時に現れた娯楽の種々相」が述べられているので紹介したい。

[以下、抜粋(一部編集)]
・このような状態に置かれて、何でもなかった平常の状態においては、何でもなく思われて、むしろ閑却されていた事柄が、初めてその意義が顕現された。それらの人間生活における枢要さがひしひしと人々の心に押し迫ってきた。米と水との有難味が、つくづくと感ぜられた。そして私の取り扱おうとする「娯楽」も初めてその意義が人々の心に明らかになった。

・「私は娯楽なき人生は死である。人間に食物と飲物とが必要であるが如くに」というのが、私の持論であった。ところが幸か不幸か、今度の大震で、それが正当であったことが明らかになったのである。
・大震後の十日位は、否な三週日位は、人々は「娯楽」ということなぞ考える余裕がなかった。いや余裕がなかったのではなく、考えることの意識以外であった。

・大震後既に十日にして、日比谷公園の有楽門あたりの賑わいは以前の東京にも一寸見られぬ図であって、日暮れ方から初夜にかけての同所は客種のちがった昔の銀ぶらを偲ばせるものがある。数百軒の露店の間で最も多いものは酒を売る店である。一升瓶の底を抜いて、その中に点じた蝋燭の灯の前には、娯楽封鎖を受けた男性の群が大コップ一杯15銭の冷酒に喉を鳴らしている。そして二十日頃には既に大道に、ジャケットを売る店の隣に焼け残った講談本や古講談雑誌の露店が幾つも開かれて瞬くうちに売れていく行くという有様であった。二十日過ぎに丸ビルが開かれて、そこの書店に集まった群れは第一着に軽い趣味的読物を漁りつくしたということである。震災当時は考えることさえ罪悪と思われた寄席や活動写真が十日に入ってそろそろと遠慮しながら興行をはじめたが、何処も此処も大入りを喜んでいるという有様である。

・人間の生活が平衡を失っている間は娯楽を思わないが、娯楽を思わない人間生活は既に平衡を失っているのである。そして、人間の生活が平衡を保とうとして行けば行く程、娯楽に対する要求が生じて来るが、またそれと同時に娯楽を得れば得る程、人間の生活が平衡に赴き、平衡に赴けば赴くほど専らに娯楽を要求するのである。

・単に娯楽を恵むという古い形式の社会政策的方策に堕することなく、民衆生活と娯楽との関係を極めて緊密に結び付ける様な、民衆生活の中に娯楽あり、娯楽によって民衆の復興的元気が振作される様な徹底的な根本策が樹立せらるることを期待している。

権田保之助の映画観について

コロナ禍でもありネットで書籍を購入した。
「サイレントからトーキーへ」(早稲田大学名誉教授。映画史・映画理論専攻。岩本憲児著)である。
この中で、権田保之助の社会学者としての映画観が述べられているので紹介したい。

[以下、抜粋(一部編集)]
・権田保之助の著作・エッセーから同氏の業績をいくつかまとめてみると、次の4点が浮かび上がってくる。
 1.映画全般におよぶ百科事典的啓蒙家
 2.上映や上演の形態、観客層の実態を数量的に調査した社会学上の先駆者
 3.自律的民衆娯楽の擁護者
 4.生活美化をめざした社会教育者
 これまでのところ、社会学の立場からも映画史の立場からも、第1点は見落とされてきたと言ってよいだろう。

・「活動写真の原理及応用」(大正3年出版)は、この時期の日本はむろんのこと、世界的にも珍しい映画研究書と思われる。
 第1章「活動写真の歴史」から始まって、第5章「活動写真の応用」に至る、技術的・実際的説明部分にも、映画百科的なパノラミックな視点があって、それも単なる知識の羅列に終わらない、映画を新しいメディアとして総合的にとらえようとする姿勢がうかがえる。

・術語すら定まっていないので、権田自身の命名と思えるいくつもの用語があって、映画史的にはなはだ興味深い。
 同書は、おそらくドイツ語文献を渉猟しながら、映画の歴史から説き起こし、当時の技術、運動の知覚、発展途上の技術と未来の映画、さまざまな領域への応用、美学、そして哲学と文明論にまで説きおよんでおり、その構成たるや、まさに「活動写真の世界」とでも呼べそうな幅の広さである。

・もう1つ忘れてはならない重要な側面がある。それは啓蒙家である以前の、映画に対して自ら楽しく享受する享楽家としての側面であり、のちに、映画を中心的メディアとしてとらえながら、自然発生的・自然成長的・自律的な民衆娯楽全体を積極的に評価していく権田の考えは、すでに「活動写真の原理及応用」の中にその萌芽を見ることができる。
 のちに長谷川如是閑が、映画を印刷術の発明にも匹敵する文化的産物と評価しながらも、結局「事相の再現」「再生産」「複製物」としてしかとらえなかった姿勢と比べるとき、権田は映画を自律的にとらえようとしていた点で如是閑より進んでいた。

・映画の形式上の特徴を分析しながら、映画美の探求を試みたことでも権田は先駆的だった。
 「活動写真と美」は、
 1.機械的特徴より生ずる美の種類
 2.経済的特徴より生ずる美の種類
 3.活動劇と舞台劇
 に分かれているが、この中では1.が最も重要であり、その特徴としては次の6点が挙がっている。
 a.場面狭小にして、しかもこれを拡大するを得ること。
  (細部が拡大されるため、観客は人物の表情に注目する。人物の意思とか感情とかに心を奪われるようになって、内容にのみ向かっていくようになる)
 b.光線の強烈なること。
  (刹那刹那に最も自分の注意を惹いた部分だけが印象に残る)
 c.平面なること。
  (平面を心の中で立体化する。活動劇に自己を盛るため、観客の主観的内容、主観的感情の美が生まれる)
 d.無色なること。
  (墨絵との類似。墨絵には奥に隠れている意味とか内容、力とか意志とかがある。活動劇の場合、動的・感傷的な内容がこれに代わって表われる)
 e.無音なること。
  (弁士がついていても画面とせりふの間には、ずれがあるので、ここに観客の自己がとびだし、主観的色彩が強まる)
 f.自然景の応用。
  (観客の住んでいる自然の一部としての背景)
 これらの6点は、18年後にルドルフ・アルンハイムが映画の芸術性を保証する形式の特徴として挙げた6点と似ている。

・平面スクリーンを心の中で立体化するために、観客の主観的感情の美が生ずるという考えも、当時「写真・映画=非芸術論」の根拠となった「映像=客観性」という考えが大勢を占めていたことを思えば、権田の「主観的感情美」論はすこぶる進歩的だったと言える。
 ドイツ出身の心理学者ヒューゴーミュンスターバーグが心理学の立場から、映画の成立根拠を主観的心理や錯覚に帰して詳細な映画芸術論をアメリカで展開するのは、権田の著書より2年後である。

・権田の楽天的・積極的映画論は勇ましい言葉で結ばれる。曰く、美的概念の改造、生活価値の創作、新文明の誕生、と。
 言葉たらずであるとはいえ、権田の野心的構想は時代から抜きん出ていたのではないだろうか。

 

権田保之助に関する海外書籍

書籍「近代による超克(戦間期日本の歴史・文化・共同体)」(ニューヨーク大学教授 ハリー・ハルトゥーニアン著、2007年 岩波書店)に権田保之助に関する記載があるので紹介します。

[以下、抜粋]
・民衆的な娯楽形態を研究した飽くなき社会研究家として、権田のスタンスは、1920年代のマルクスに触発された批判的な実践から、1930年代後半になるとファシスト的な大衆的国民文化の理解へと急速に移行した。しかしながら彼はその間、国民文化の形成を民衆娯楽の構築にみるという見解を一貫して保持した。そしてその娯楽の歴史は、本質主義者や「復古主義者」に言祝がれているような不変性ではなく、むしろモダンライフによって示されまた要求もされているような変化を明らかにするものであった。

・はっきりとそれとわかるかたちで西田幾多郎やその他の「超越論者」たちに言及しながら、権田が、実際のところターゲットにしていたのは、当時一世を風靡していた「文化主義」の役割であり、1920年代の論議におけるその命令的な声音であった。

・彼の調査は、その多くが、例えば大都市に見られる浅草のような地区に、すなわち文化的な「領域」もしくは「範囲」に焦点を当てたものであった。子どもたちでさえ、権田のまなざしの前では、重要な対象となった。1917年という早い時点で、彼は一定の年齢層の子どもたちが、何回映画を見に行くかを明らかにしている。彼らが好むのは、チャーリー・チャップリンや日本における数多いその模倣者たちによる活劇や喜劇であった。実際に、権田は、子供たちが文字通り映画館を生きていたことを記録している。子どもたちは、そこで「ラムネ」を飲み、「キャラメル」や「煎餅」を大量に消費していた。彼らは、楽しみのために来て、そこで歓声を上げ、一瞬「我を忘れ」、日常生活のルーティンから逃れるのである。

・権田の調査では、宗教的もしくは哲学的な原理を当てはめるのではなく、「生きた世界」を調査することこそが重要であり、またその方法としては「生きた現実」を「インタビュー」することこそがふさわしかった。それは、彼にとって、「野の草の茎にも大宇宙の理法が表れているという」ことを意味した。彼の方法は、綿密なインタビューによって補足された、几帳面で正確な観察に立脚する厳密な経験主義であり、したがって、実際の社会調査を始める前に、一連の娯楽形態を選択することがまず必要であった。この技法は、過去と現在の娯楽の形態の共存、新しいものと古いものの混交、新しさのなかの古さ、日本的なものと西洋的なものとの共存の重要性を強調するものであった。それはまた、柳田国男の、過去と現在の習慣の混交という理解とも極めて近いものであった。

・なぜ、「唯物史観」の主唱者をもって任じる権田が、過去の封建的な時代やその生産様式に帰属する芸能や芸人の消失を悲しまねばならなかったのか、それを知ることは難しい。

(権田速雄氏のメモ「櫛田民蔵宛て書簡中の復古思想への回帰言明は興味ある表現だが、その理由は書簡を読み解くことにある」)