権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

関東大震災から100年

浅草六区側から凌雲閣側に向かって撮影された写真
(出典:「写真集_関東大震災」、著者_小薗崇明、東京都慰霊協会)


今から100年前の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、激甚をきわめたその災害により都内は大きな被害を受けました。
1921年(大正10年)5月~7月に浅草の民衆娯楽(活動写真など)の実地調査と社会地図の作成を行った権田保之助は、「民衆娯楽問題の原書は丸善にはありません。浅草にあります。」と学生の質問に答えたほど浅草好きで、関東大震災の時も即刻浅草を訪れています。
権田保之助の眼には、その時の浅草がどう映ったでしょうか。

 

 

権田保之助は、浅草の社会調査では丁寧な「実査」を行いました。
まず、1店1軒を「実査」し、その間口、奥行き、業種、外観などを記入する個別調査票を用意します。
次に一つのブロック毎に「実査」の地図を作成していきます。
ここでもブロック毎の東西の距離、店の数、その種類、外観、特徴その他地上建造物の全てを記入しました。

このブロック図全部を貼り合わせたのが「浅草社会地図」ですが、その内容は正確無比で、「浅草社会地図」のサイズは8畳間に敷けないほど大きなものとなりました。
田村紀雄「権田保之助・『浅草』風俗の調査」より)

しかし、浅草調査結果はすぐには発表されませんでした。
浅草調査の発表が遅れた理由について、次男速雄氏は以下のように述べています。
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大正10年9月、調査票その他の整理が終わり、その集計編整に取りかかったのであるが、父は丁度その頃多くの仕事を抱え込みすぎていた。
いかに精神の高揚期であり、体力気力が充実していた時期であるとは言え余りにも仕事の量が多すぎる。

若干の年月の前後はあるものの、殆ど同時並行的に行われたと思える仕事を列挙すると次の通りである。
1 倉敷調査
2 文部省全国民衆娯楽調査
3 サービス業従業者調査
4 月島調査報告執筆
5 自著の出版(3冊)
6 芸術教育会の設立と運営

これでは膨大な資料を処理しながらまとめなければならない「浅草調査報告」が遅れるのは当然である。
しかも愛着のある「浅草」の調査なのでより完璧を期したいという思いもある。

そうこうするうちに大正12年9月1日関東大震災がおこり、激甚をきわめたその災害は「浅草」を壊滅せしめた。
復興は早かったが外面的に止まり、内面的様相は大きく変わった。
それは「浅草」に集まる民衆の質と量の変化であった。
「浅草」を作り出した市民層であるプロレタリアとインテリゲンチャは分散してしまった。「娯楽地浅草」もまた分散してしまった。

父は悩んだ。東京の娯楽地図が全部塗り替えられてしまったような現在、震災直前の浅草の娯楽調査の結果を発表することは何の意味があるのか。
「浅草」の再調査は遂に行われなかった。
震災をはさんで「浅草」の新旧を対比することに意欲の持てない何かがあった。
もはや「浅草」ではない、いつまでも「浅草」にこだわるべきではないという思いが日に日に強くなっていく。

しかし調査したときから満8年たった昭和4年10月になって論文を寄稿し始めた。
その「はしがき」には遅れた理由は明記していないが、発表する理由の中に文化史的意義を強調している。
私にはその執筆の動機が震災以前最盛期の浅草に対する郷愁の情と思えてならない。
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また、速雄氏は以下のメモを残しています。
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戦中(晩年)、父の保之助が愛読していた書物がある。
「浅草記」 久保田万太郎著 生活社 昭和一八年七月刊
「寄席風俗」 正岡容著 三杏書院 昭和一八年一〇月刊
の2冊である。
戦時中よく二人の本が出版されたと思う程、時代にそぐわない味のある本である。
「浅草記」の中で万太郎が引用した高村光太郎の詩「米久の晩餐」には赤線が引いてあった。

懐古の情にさそわれたのではないかと思う。
この詩は最早や父の世界ではないのか。「民衆娯楽」と云う味気ない文字と議論は、この中に全部要約されている様だ。限りない共感と郷愁をこめて読んだことだろうと思う。
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(権田速雄「父・権田保之助」より)

権田保之助の学問研究に対する姿勢
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人文科学の研究法は、自然科学のそれとは全然別でなくてはならぬ。
即ちある概念を立てて「何々とは何ぞや」と論じ、公理を定め、定理を立ててゆくことは自然科学の研究法でありますが、人文科学、社会科学に於ては、その逆であらねばならぬ。
ここでは社会現象そのもの、実際関係そのものから出発して逆に抽象的概念に帰納しなくては駄目である。
今日の人文科学、社会科学の不進歩は、この様な抽象的概念から出発するからであると考えている。
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(大正9年4月から大正10年3月の間、女子英学塾で講義した時の冒頭の挨拶より)

東京の下町育ちで、はやくから「浅草」に親しんできた権田保之助は、そこに集まる人々の生態即ち娯楽愛好の傾向に興味を持つようになり、中でも人気のある活動写真(映画)に目をつけるようになりました。
なぜ活動写真が多くの人に好まれるのかという素朴な疑問から、その人々の階層の変化に気がつきました。
権田保之助の民衆娯楽論の出発点でした。
このように社会の実態、現象を調べてその中から真理、法則を発見する方法は権田保之助の信念になっていきました。
それが自分の性分にも合っていたのです。

権田保之助の社会調査、娯楽調査の基調を流れている考え方、姿勢を表わす一寸したエピソードがあります。
以下、次男速雄氏のメモより。
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それは志那事変初期の頃だったと思う。
私のすぐ下の弟とは年令が近く、遊ぶのにも気が合い、行動を共にすることが多かったが、丁度その年頃に多い「物集め」に熱中していた。
あらゆる雑多なものを各々得意になって蒐めていた。映画のプログラム、電車の切符、駅弁の包装紙、マッチのラベル、観光案内のチラシ、地図、箸袋等々。
それこそ乱雑に手当たり次第の感があった。

或日、その様な兄弟の様子を見かねたのか、父が弟に言った。
「お前達はやたらといろいろなものを蒐めている様だが、どうだ、菓子屋の袋を蒐めてみないか。店によって印刷、デザインが違い材質も異なる。
また時々変わるので、それを系統的、時間的に蒐め整理すると面白い資料になるよ。」
弟は資料になると云うことが判らず、父に問いただした。
「紙袋、菓子袋の様なものにも、その時々によって流れがあり、また店の特色が出ている。

一般庶民が日常生活の中で必ず買い求めるものの中味もさる事ながら、役目を果たせば捨てられてしまう包み紙は、その中味を知る事が出来ると同様に、難しく言えば庶民生活史の一面を知ることの出来る貴重な資料になるんだよ」と説明した。
弟はもともと凝り性のところへ持ってきて、父の説明に大いに共鳴したらしく、早速オヤツの為に買ってきた菓子袋は言うに及ばず、あらゆる店の袋という袋を真っ先にその中味より先に取り上げて、スクラップブックに貼り始めた。

そのうちそれだけでは満足せず、自分で菓子屋巡りを始め出した。
それも菓子を買って袋を手に入れるのではなく、直接その店の主人に頼み、菓子袋を貰い始めた。
驚いたのは店の人々で、何にするのだと問いただすと、蒐めていると云う返事しか出来ない。
今ならば社会科の勉強の為だと云う事も出来るが、その頃は店の主人に話したところで狐につつまれた様な有様であっただろう。

その様にして集まったものを眺めて見ると良く判る。即ち、駄菓子屋、普通の菓子屋、高級菓子店によってその紙質、デザインが皆違う。
しかも同じ店のものを時間を追って何枚も集めてみると、丁度日本が戦争に突入した当初と段々戦争が激しくなり、物の統制、物価の高騰の影響が現れ始めた時とではその紙質、印刷が徐々にではあるが変わってくるのが良く判る。

粗悪になり、特色がなくなり、仕舞にはどの店屋のものも同じ紙質、デザインの印刷になってしまった。
そんなことから、弟の蒐集癖も何時しかさめてしまい、興味は他の分野に移ってしまった。
些細なものの中に民衆の生活と社会経済を見出し、その価値を生み出す手法を教えられたことは有難かった。
このささやかなものの見方、考え方は、父の思考方法と興味の視点、把握方法を知る上での参考になるのではないかと思う。
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最後に、「女性 4巻5号」(大正12年11月、プラトン社発行)の中で、関東大震災直後の権田保之助の考え「非常時に現れた娯楽の種々相」が述べられているので紹介します。

[以下、抜粋(一部編集)]
・このような状態に置かれて、何でもなかった平常の状態においては、何でもなく思われて、むしろ閑却されていた事柄が、初めてその意義が顕現された。それらの人間生活における枢要さがひしひしと人々の心に押し迫ってきた。米と水との有難味が、つくづくと感ぜられた。そして私の取り扱おうとする「娯楽」も初めてその意義が人々の心に明らかになった。
・「私は娯楽なき人生は死である。人間に食物と飲物とが必要であるが如くに」というのが、私の持論であった。ところが幸か不幸か、今度の大震で、それが正当であったことが明らかになったのである。
・大震後の十日位は、否な三週日位は、人々は「娯楽」ということなぞ考える余裕がなかった。いや余裕がなかったのではなく、考えることの意識以外であった。
・大震後既に十日にして、日比谷公園の有楽門あたりの賑わいは以前の東京にも一寸見られぬ図であって、日暮れ方から初夜にかけての同所は客種のちがった昔の銀ぶらを偲ばせるものがある。
数百軒の露店の間で最も多いものは酒を売る店である。一升瓶の底を抜いて、その中に点じた蝋燭の灯の前には、娯楽封鎖を受けた男性の群が大コップ一杯15銭の冷酒に喉を鳴らしている。
そして二十日頃には既に大道に、ジャケットを売る店の隣に焼け残った講談本や古講談雑誌の露店が幾つも開かれて瞬くうちに売れていく行くという有様であった。二十日過ぎに丸ビルが開かれて、そこの書店に集まった群れは第一着に軽い趣味的読物を漁りつくしたということである。震災当時は考えることさえ罪悪と思われた寄席や活動写真が十日に入ってそろそろと遠慮しながら興行をはじめたが、何処も此処も大入りを喜んでいるという有様である。
・人間の生活が平衡を失っている間は娯楽を思わないが、娯楽を思わない人間生活は既に平衡を失っているのである。
そして、人間の生活が平衡を保とうとして行けば行く程、娯楽に対する要求が生じて来るが、またそれと同時に娯楽を得れば得る程、人間の生活が平衡に赴き、平衡に赴けば赴くほど専らに娯楽を要求するのである。
・単に娯楽を恵むという古い形式の社会政策的方策に堕することなく、民衆生活と娯楽との関係を極めて緊密に結び付ける様な、民衆生活の中に娯楽あり、娯楽によって民衆の復興的元気が振作される様な徹底的な根本策が樹立せらるることを期待している。
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取り留めのない話になってしまいましたが、コロナ渦の現代にもつながるように感じます。
今日は、今から100年前の関東大震災当時の権田保之助に想いを馳せてみました。

大原社研で再度「権田保之助資料」を閲覧しました!

(長文のため、お時間無い方は赤字を拾い読みいただければと思います)

またこの日がやってきた。
前回の大原社研での「権田保之助資料」閲覧で閲覧できなかった資料、追加で閲覧したい資料の閲覧を行った(4/6、4/26)。
今回私が閲覧した資料を本文の最後に記載する。

[閲覧した感想、気づき、発見など]
1.欧米旅行日誌、旅費明細帳など(資料番号4)
大正13年~14年の外遊時に、権田保之助がいつ、どこへ行き、何をしたかなどを知る手掛かりとなる興味深い資料だと思う。

2.権田保之助の未公表随筆「渡欧土産」(未定稿)(資料番号30)
前回閲覧した未公表随筆「渡欧土産」(権田速雄氏による清書)の原本(権田保之助が実際に書いたもの)である。
外遊時に新聞社へ投稿して連載した「渡欧土産」の校正原稿である。
文字はとても読みづらいが、新聞投稿記事と校正原稿を比較することで権田保之助の心情の変化などを知る手掛かりになるかも知れない
いずれにしても、未公表随筆「渡欧土産」(未定稿)は権田保之助が外遊時に何を感じたかを知る上でとても貴重な資料だと思う。

3.「浅草地図」関係調査(資料番号22)
権田保之助が作成した関東大震災前(大正10年)の浅草六区地図の復元に関する、日本人と娯楽研究会(昭和57年~昭和61年)の研究・調査資料である。
日本人と娯楽研究会によって復元された権田保之助の「浅草社会地図」は江戸東京博物館の常設として大正コーナーの床面に大きく展示された。

4.文明学会資料(資料番号17-21)
 権田保之助などが設立した文明学会に関する案内文、講演会や展示会への出席者の芳名録などである。芳名録には、和辻哲郎芥川龍之介辻潤、川上邦世、平櫛田中、酒井庄吉、渡辺庄三郎、櫛田民蔵、森戸辰男、村岡典嗣菅原教造、権田保之助など当時の文化人等の名前が書いてある。

5.新聞記事スクラップ(資料番号16)
 薄い茶色の紙を紐で束ねた手作りのスクラップ帳に、大正13年~大正15年のラジオ、大正5年から昭和3年の映画に関する新聞記事が所狭しと貼られている。
 当時、ラジオや映画が新聞でどう扱われたのか、時代と共に扱いがどう変化していくのかなど知る上で貴重な資料だと思う。
 特に大正12年関東大震災前後での記事の変化は興味深い。
 権田保之助が投稿した映画に関する記事も貼られているので、権田保之助が当時どういう立場にいたのかなどを知る手掛かりになると思う。

 そして、お宝を発見した!
 権田保之助が脚色及び監督をした内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画「妖雲散じて」に関する新聞記事が貼られているのだ。なんと、権田保之助の中野の自宅で撮影された。機会があれば是非視聴したい!

 

[新聞記事]

〇衛生局長御自慢 宣伝劇「妖雲散じて」腸チフス予防の映画製作(大正12年8月6日)
 ・内務省衛生局防疫官飯村保三氏の監督、活動写真研究所長権田保之助氏の指導によって製作されている「妖雲散じて」は全5巻に法定伝染病中で約5割5分を占めている腸チフスの恐ろしい伝搬力を現し、その予防と撲滅は国民全部の自覚によらねばならぬことを興味ある脚色にしたもの。
 ・今7分くらいできている。
 ・今日午前10時から権田所長の自邸府下中野町本郷549に所長初め飯村防疫官も集まり、主役となった活動俳優近藤伊代吉君らの一行も加わり、権田所長の邸内を舞台として、患者診察の場その他を映した。
 など。

〇「妖雲散じて」(大正13年6月7日)
 ・「妖雲散じて」全5巻を腸チフスの盛んな青山方面で公衆に見せた。
 ・付近の洋食屋の客足がバッタリと止まった。
 ・「妖雲散じて」で洋食屋のコック場の汚い所を見せているのが原因。
 ・警視庁でも気の毒に思ったが、衛生上仕方がないのでどうすることもできなかった。
 など。

6.古典映画雑誌パンフレット類(資料番号47)
うきよ、改造世界、影絵、活動公論、Kinema Times、カフエー世界改題巷燈、活動写真雑誌、The Kinema Times、映画雑誌、フイルムタイムス、キネマ旬報、映画新聞、活動写真新聞、民衆娯楽、松竹キネマニュース、煙都キネマ、映画之栞、ムーヴィー、ENTO KINEMAなど、活動写真(映画)に関する多種類の雑誌やパンフレットが発行されたことが分かる。それにしてもこれだけ多数の雑誌類を集めて保管していた権田保之助は凄いと思う。
閲覧時間に余裕がなく、全てを閲覧することはできなかった。

7.関西弁士協会・説明者協会(資料番号11)
 大正12年昭和2年の関西弁士協会・説明者協会の会報や月報などである。
 関西説明者協会の会報にて、権田保之助は「説明芸術の誕生」を投稿している。
 関西弁士協会の月報にて、橘高広は「社会事業と活動写真」を投稿している。

8.外遊時各種パンフレット(資料番号31)
 1924年の外遊時に収集したドイツの映画製作会社などのパンフレット類である。
 閲覧時間に余裕がなくほとんど閲覧できなかった。

9.唖蝉坊(あぜんぼう)関係資料(資料番号35)
 民主芸能家である添田唖蝉坊が発行した大正8年大正12年の雑誌「民衆娯楽」、「月刊民衆」などである。権田保之助も論文を投稿している。

 

[閲覧した資料のタイトル(閲覧順)]
4-3 大正十三年―大正十四年 欧米旅行 日誌 (其の二)
4-4 大正十三年―大正十四年 渡欧旅行 日誌 (其の三)
4-5 欧米旅行 人名蒐録 (名刺共) 大正十三年―大正十四年
4-6 欧米旅行 旅費明細帳 大正十三年―大正十四年
30-1 渡欧土産(未完稿)(外遊随筆)
22-3 T.10 「浅草社会地図」(権田用)
22-4 研究計画の概要
22-6 大阪「道頓堀・千日前」社会地図
22-7 〔小学校調査関係書類綴〕
22-8 〔浅草社会地図綴〕
22-9 〔「浅草社会地図」復元(地図班)関係書類綴〕
22-10 資料 大正10年東京、浅草
22-11 助成金の内訳
22-12 研究スケジュールと体制
22-13 小学校児童調査 職業分類のためのメモ(寺出)
22-14 浅草社会地図 作成のためのメモ
22-15 緑尋常小 6年男子「食べたか」大正10年調査
22-16 興業街コード表(検討案)
22-17 「浅草公園之図」
22-18 小学生の浅草体験調査数
22-19 コーディング作業について(小学校調査) 試案
22-20 社会地図班の今後の課題
22-21 中間集計(3月25日現在)
22-22 調査に付いての御注意・問題
22-23 〔新聞記事〕
17-21-2 文明学会 例会来会者芳名録
17-21-3 文明学会 公開講演会及び展覧会 来会者芳名録 
17-21-4 文明学会関係書類
16-2 〔新聞記事スクラップブック〕「大正 ラヂオ 11」
16-3 〔新聞記事スクラップブック〕
47-2 うきよ 第10巻第124号
47-3 改造世界 第4巻第2号 民衆娯楽の研究 浅草百態号
47-26 時事新報
47-28 日本興行新聞 第212号 活動写真博覧会号
47-29 日本興行新聞 第213号 活動写真博覧会号
47-4 “トモシビ”センチメンタル号
47-5 “影絵”第17号
47-6 歌劇叢書 第八編 喜劇歌 マダムアンゴ―の娘(下編)
47-7 活動公論 第1巻(六月号)第三号
47-8 Kinema Times VOL.1 NO.1
47-9 新国劇第六回公演 澤田正二郎一座 公園劇場
47-10 カフエー世界改題巷燈 第1巻第5号 7月号
47-11 活動写真雑誌 八月号
47-12 浅草 興行之友 創刊号
47-13 岡山県之社会事業 第1巻第6号 社会事業講習会號
47-14 蘇生
47-15 平和博覧会ニ関スル統計事項
47-16 The Kinema Times ANN.2 NO.2
47-17 The Kinema Times ANN.2 NO.2
47-18 映画雑誌 第4号11月号
47-19 歌劇評論 三・四月合併号
47-20 PHOTOPLAY Magazine No.4
47-21 フイルムタイムス VOL.1 NO1 創刊号
47-22 キネマ旬報 No.66
47-23 映画新聞
47-24 活動写真新聞
47-25 民衆娯楽 特別付録
47-27 日本興行新聞 第211号
47-30 演芸週報 第23号 第三回愛読者慰安記念号
47-33 週刊 活動写真新聞
47-34 松竹キネマニュース
47-37 煙都キネマ No.3
47-39 映画之栞 創刊号
47-41 ムーヴィー 創刊号
47-42 煙都キネマ No.2
47-43 ENTO KINEMA NO.1
47-44 映画雑誌 クローズアップ 創刊号
47-45 Film Stars Graphic
47-46 映画雑誌 影絵 第20号
11-11 関西弁士協会 月報 1月号
11-25 関西説明者協会 会報 5月号 第10期
11-49 映画解説漫談随筆雑誌 聲陣 第8年4月号
31-19 Das Programm der UFA-Theater
35-12 『演歌』改題 民衆娯楽 7月号
35-25 月刊民衆 5月創刊号 第1巻第1号

以上

「らんまん」は興味深い

NHK連続テレビ小説「らんまん」が始まっている。
94年の生涯をまっとうするまで植物学研究に明け暮れた植物学者「牧野富太郎」をモデルとしたドラマだ。
牧野富太郎は幼いころから植物が好きで「日本の植物学の父」ともいわれる。
日本全国で植物を採取して、約50万点の標本を作製し、新種を発見して1500種類を超える植物の命名をした。
小学校を中退し、植物学を独学で学んだ。
「学ぶというよりは植物で遊んだ」という牧野富太郎は、東京帝国大学 植物学教室への出入りを許され、そこで植物分類学の研究に打ち込む。
まさに「好きという才」である。

牧野富太郎1862年高知県の酒造と雑貨を営む商家で生まれた。
NHK連続テレビ小説「らんまん」では、商家の跡取りとして何とかして家業を継ぐよう祖母が懇願するシーンがある。
また、自由民権を主張しただけで憲兵に検挙されるシーンもある。

権田保之助は1887年に東京神田の土建材料商の商家で生まれた。
そして祖父の反対を押切り、学問への道を進んだ。
中学時代に反戦を主張したことで中学を退学となった。
権田保之助は英語とドイツ語に堪能だったため、戦時下において「敵性語はけしからん」と自宅を憲兵に囲まれたそうである。
NHK連続テレビ小説「らんまん」を見ていると、権田保之助の生きた時代と重なるようでとても興味深い。

自宅敷地内の草が生い茂ってきた。
草むしりをして草花を近くでみるといろいろな発見がある。
意外と多くの種類の草花があること、そのまま残しておきたい草花があること、草によって根の張り方が異なること、
アブラムシが新芽の先端にたくさん付いていること、草を抜くと根の近くに芋虫やミミズがいること、などなど。

牧野富太郎の「雑草という草はない」という言葉は素敵だ。

 

神田にあった権田商店

権田商店

 

権田保之助が愛用した「長火鉢」を受け取りました

権田保之助が中野の自宅で愛用していた長火鉢を昨日受け取りました。
この長火鉢は、保之助が亡くなった後も次男の速雄氏が大切に保管し、北鎌倉の自宅から熱海へ引っ越す時に手狭となった際は保之助の妻タンさんの親族である池村氏に譲り、その後、池村氏が大切に保管していたものです。
長火鉢の引き出しの箱は虫食い状態にありますが、火鉢本体、鉄瓶などはしっかりとしていて、今でも使えそうな感じがします。

池村氏は昭和21年に権田保之助の中野の自宅で生まれており、保之助、タンさんに会っていますが、保之助は昭和26年に亡くなったため、保之助のことは覚えていないようです。
タンさんのことは朧気ながら覚えているようで、この長火鉢に肘をついて座っているタンさんの面影が残っているそうです。

保之助の次男速雄氏は、父・保之助の回想録「父・権田保之助」の中で、この長火鉢について以下のように記載しています。
―――――
父は酒が好きだった。それも日本酒を家で飲むことだ。毎晩、茶の間の食卓の横の長火鉢の鉄瓶に一合弱入る小型の徳利を入れ、自分でおかんを楽しみながらチビチビ時間をかけてやる。吾々は飯だけ食べて草々に退散する。何故ならば、話し相手がたまらないからだ。話が割合いくどいのが面白くない。自分で話題を出すことは殆どなく、息子、娘からの話を聞きたいらしく、それには息子共は困ってしまい、モゴモゴと何やらつまらない事をしゃべって、食事も早々に自分達の部屋に逃げて行く始末であった。
酒の肴は何でもよい。しかし、魚類が特に好きだった。勿論、酒の肴と言われるものは何でもよく、好き嫌いは絶対ない。特に母の故郷の名産である新島のクサヤはお気に入りだった。
塩辛をなめながら上機嫌で「母さん、今日は特にもう半分」と云って母に徳利を差し出すと、母は心得たもので「血圧に気を付けてくださいよ」と云いながら,一杯にして持ってくる。それをしおに吾々は退散することになる。
―――――

権田保之助が愛用した長火鉢

 

大原社研で「権田保之助資料」を閲覧しました!

(長文のため、お時間無い方は赤字を拾い読みいただければと思います)

遂にこの日がやってきた。

 権田保之助の次男速雄氏が2012年に大原社研へ寄贈した「権田保之助資料」が漸く整備されて、2023年2月9日にそのデータが公開され、資料の閲覧が可能となったのだ。

 閲覧可能となった権田保之助資料は2000件を超える数で、まずは閲覧を希望する資料の番号と閲覧希望日を事前に大原社研へメールで伝える必要がある。
というのも、大原社研での資料閲覧は同時に2名しか閲覧できず、閲覧時間は朝10時~午後4時(うち11時30~12時30分は昼休み)のため、事前の予約が必要なのだ。
資料は閲覧希望順に1つずつ手渡されるため、閲覧にはそれなりの時間を要する。
 私は、54件の資料を閲覧希望順に一覧にして事前に伝え、2日間で閲覧を終えようと考えたが、2日間で閲覧できたのは半数に満たない24件の資料で時間切れとなった(汗)。
残りの資料については、日を改めて閲覧したいと考えている。

法政大学 大原社会問題研究所(大原社研)

さて、今回私が閲覧した資料は以下のとおり(閲覧順に記載)。

[閲覧した資料のタイトル]
1.内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画 妖雲散じて 全五巻(趣旨及梗概)
2.明治43年-大正4年を中心として 美術論集
3.大正9年・10年 社会論集
4.大正10年末より大正11年始めまで 社会時評
5.〔新聞の広告〕とメモ Ufa=Palast am Zoo. Das letzte Mann
6.〔映画鑑賞日記〕
7.京阪に於ける活動写真記事
8.大阪ニ於ル映画館ヲ中心トセル娯楽興行場之プログラム (第壱輯)
9.各地ニ於ル映画館ヲ中心トスル興行場之プログラム (第壱輯)
10.各地方に於ける活動写真記事
11.活動写真之興行 『東京』之部
12.浅草調査ニ於ル蒐集興行場プログラム及引札(附.大正10年4月 大阪道頓堀千日前ニ於ル蒐集)
13.東京市内ニ於ル活動写真興行団プログラム及ビ引札(第壱輯)
14.東京市内ニ於ル活動写真興行プログラム(第弐輯)
15.活動時報 活動写真展覧会號 第1巻第5号
16.増補再版 活動写真劇の創作と撮影法
17.活動寫眞展覧會記録
18.第一回活動寫眞説明者講習会講習録
19.[文部省主催説明者講習会関係書類]
20.[文部省主催活動寫眞展覧會関係書類]
21.〔マキノ教育映画連盟関係書類綴〕
22.マキノ教育映画連盟趣旨綱要
23.渡欧土産(未定稿)
24.大正十三年―大正十四年 欧米旅行 日誌 (其の一)

[閲覧した感想など]
●資料1は、内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画「妖雲散じて」は、権田保之助が脚色及び監督をした映画の趣旨及び概要が書かれた大正13年2月発行の24ページの小冊子である。権田保之助が監督をした映画が存在したとは驚きだ。機会があれば是非視聴したい!

●資料2,3,4は、権田保之助が雑誌に投稿した論文で、明治43年から大正4年雑誌「日本美術」などに投稿した美術論大正9年10年に雑誌「我等」などに投稿した社会論、大正10年末より大正11年始めに雑誌「大観」などに投稿した社会時評である。権田保之助の若き日の思想について知ることができる

●資料5は、ドイツ語で書かれた新聞広告の切り抜きと権田保之助の手書きメモである。カール・マイヤー脚本、F.W.ムルナウ監督、エミール・ヤニングス主演の1924年の映画「最後の男」に関するものらしい。1924年大正13年)は権田保之助が渡欧した年なのでドイツで購入した新聞だと考えられる。

●資料6は、昭和4年3月22日~7月2日まで書かれた権田保之助の「映画鑑賞日記」である。120ページあるノートで、見開き右側に鑑賞日記を書き、左側は空欄とし、映画のチラシやパンフレット類を貼付している。この日記は権田保之助が子息2人を連れて映画を観た時のプライベートの日記である。権田保之助がどんな映画を観てどう感じたのかを知ることができる貴重な資料である。当時の映画のチラシやパンフレット類も貴重な資料だ。
子息の権田速雄氏がこの映画鑑賞日記を書き写したものが私の手元にあるので、記載されている内容は既に知っていたが、子供たちと一緒に観た映画のチラシやパンフレットをそのまま大切に貼付した映画鑑賞日記を手にしてみると、権田保之助が家族と過ごしたひと時を大切にしている様子が感じられる。
権田保之助は昭和4年3月29日にシネマ・パレスで映画「カリガリ博士」を観ているが、それが活弁だったのかサイレントだったのか、ずっと気になっていた。映画鑑賞日記に貼付されたチラシを見ても、弁士のことは何も書かれていない。徳川夢声による活弁だと思っていたが、サイレント映画だったのだろうか。
カリガリ博士」のチラシには「独逸デクラ・ビオスコープ映画」と書かれている。デクラ・ビオスコープ社の筆頭重役エリヒ・ポマーはフリッツ・ラングに「カリガリ博士」を監督するよう指定したが、準備検討の途中でラングは連続映画「蜘蛛」を完成するよう命令され、ラングの後任はロベルト・ヴィーネ博士となり、ヴィーネは、ラングが計画したものと完全な調和を保ちながら、オリジナルストーリーの本質的な変更を提示した。オリジナル・ストーリーは真実の恐怖の報告であったが、ヴィーネのストーリーは、この報告を精神的に狂ったフランシスがでっちあげて物語った妄想に変形させている。(「カリガリからヒトラーへ」ジークフリート・クラカウアー)

 

 また、権田保之助は昭和4年4月9日に浅草松竹座で映画「メトロポリス」を観ている。チラシには解説・伴奏選曲者名の記載があるので活弁だったのだろうか。
メトロポリスは1927年にベルリンでドイツ国内上映版が上映され、その後短縮された輸出用プリントがアルゼンチンを除く海外で上映されたので、権田保之助が見たメトロポリスは短縮版だったのだろう。アルゼンチンでは1960年代終わり頃までオリジナルに近いものが上映されたようである。当時のアルゼンチン版フィルムが2008年に発見され、2001年の復元版にさらに25分の映像が追加された完全復元版が現在DVDで発売されている。

 

[映画チラシ、パンフの例]
 ・昭和4年 シネマパレスの映画チラシ「カリガリ博士
 ・昭和4年 浅草松竹座の映画パンフ「メトロポリス
 ・昭和4年 銀座松竹の映画チラシ「メトロポリス

 

●資料7、10、11は、活動写真に関する大正6年の新聞記事の切り抜き(スクラップブック)である。30ページ、50ページ、54ページの3冊の手作りのスクラップブックに所狭しと新聞記事が貼られている。当時の新聞が活動写真をどう伝えたか、権田保之助が当時見た活動写真に関する新聞情報の内容や数を知る上で貴重な資料だ。権田保之助の几帳面さが感じられる。

●資料8、9,12,13、14の資料は、大正9年から大正13年における東京、大阪、千葉、浅草などの映画館の多数のチラシ、パンフレット類である。当時の人気映画は何か、映画チラシの変遷(最初は小さな紙)、震災の映画が大正12年9月15日(震災の半月後)から上映されたことなどが分かる。画ファン、映画関係者にとって貴重な資料だ。

また、権田保之助は大正10年の浅草調査の際も映画チラシ類を集めていたことが分かる。権田保之助の映画ファンとしての一面が感じられる。

●資料15は、大正10年11月に発行された冊子「活動時報」である。日本初の活動写真展覧会が開催されることが紹介されている。活動写真展覧会協賛会役員の中に、文部事務官 乗杉嘉壽、文部省社会教育調査委員 菅原教造、権田保之助、橘高広、星野辰男などが記載されている。権田保之助は「民衆娯楽としての活動写真」という記事を文部省社会教育調査員として投稿している。

●資料16は、帰山教正の増補再版「活動写真劇の創作と撮影法」(大正10年発行)である。帰山教正は、日本最初の映画評論誌「キネマ・レコード」の創刊者であり、純映画劇運動を提唱し、映画での女優の起用などを行った人である。著書「活動写真劇の創作と撮影法」(大正6年7月発行)は映画人にとってバイブルである。
権田保之助は著書「活層写真の原理及び応用」を大正3年10月に発行している。この本は一般にはあまり知られていないようだが、早稲田大学名誉教授の岩本憲児(日本映画史、映画理論)やイエール大学教授のアーロン・ジェロー(日本映画史)は権田保之助の著書「活層写真の原理及び応用」を高く評価している。絶版となり、古書店で販売されているが高値なので、興味ある人は国会図書館などで閲覧されると良いと思う。権田保之助は映画に関する先駆的研究者の1人だと考える

権田保之助(1887年~1951年)と帰山教正(1893年~1964年)は交流があったことが、権田保之助の「浅草調査日誌」の以下の記載から分かる。

[権田保之助「浅草調査日誌」からの抜粋]
―――――
大正10年(1921年)7月8日(金曜)曇
朝、帰山教正君来訪、新作映画脚本の下見を依頼された。宇野君と共に今日も小学校廻り、神田小学と冨士前小学校とを訪ねて承諾を得た。
午後、妻と大工とを伴って中野町本郷の地所を見に出かけた。
―――――

「浅草調査日誌」の原本は「権田保之助資料」として大原社研で手に取って閲覧できる。
また、研究誌「権田保之助研究」創刊号(昭和57年11月発行)に「浅草調査日誌」の全文が掲載されている。研究誌「権田保之助研究」は古書店で販売されていて、国会図書館などでも閲覧できる。

●資料17、20の資料は、大正11年4月15日~4月28日の2週間開催された「活動寫眞展覧會」に関する記録、関係書類である。

●資料18、19は、大正10年(1921年)2月に行われた「第一回活動寫眞説明者講習会」の講習録、関係書類である。講習会は、中田俊造が開会の辞を述べ、続いて権田保之助の「活動写真劇の真美的観察」、星野辰男の「活動写真の技術的考察」、大島正徳の「国民道徳と現代思潮」、乗杉嘉壽の「社会教育と活動写真」、橘高広の「活動写真の取締について」、菅原教造の「説明者と講習」、乗杉嘉壽の閉会の辞という内容である。

●資料21、22は、マキノ教育映画に関する資料である。権田保之助は大正8年(1919年)頃、日本映画の父として知られる牧野省三が設立した教育映画の製作会社「ミカド商会」ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男とともに協力した。権田保之助がどのように関与したか分かる資料があるのではないかと期待したが、今のところ分かるものは見当たらない。

●資料23は、昭和62年8月19日に権田保之助の子息速雄氏が書き写し終えた原稿用紙135枚の権田保之助の未公表随筆「渡欧土産」(未定稿)である。権田保之助の書いた文字はとても読みづらいので、速雄氏が書き写して残してくれたのはとても有難い。冒頭に速雄氏から以下のメッセージが記載されている。

[未公表随筆「渡欧土産」(清書)での権田速雄氏からのメッセージ]
―――――
・この「渡欧土産」を休み休み清書しだしてから1年近くが経ってしまった。
・この原稿は父(保之助)も書いてあるように、出版されず陽の目を見る事もなかった。父の著作集出版の時には諸般の事情で入れることができなかった。
・別の出版社が父の著作集再刊の意思を持った場合には、その中に是非入れたいと思っている。
・この他に私的な記録として「欧米旅行日誌」(ノート三冊)があり、また父より家族宛の書簡、母、知人等から父宛の書簡が残っている。
「欧米旅行日誌」を中心として、その中に書簡を挿入し、前記「渡欧土産」を付属しまとめ一本とすることも、父(保之助)の思想、心情を知る上で意義のある事ではないかと思う。
・しかし、整理、校正、「註」の作製等多大の労力を必要とする上、出版社の意向も期待出来そうもない。
・私家版として出版するのが妥当であろう。
―――――

速雄氏は父保之助の書いた文字を何とか読むことができたが、読めない文字もあるようで、保之助の随筆の書き写しには相当苦労したものと思われる。

速雄氏が書き写した権田保之助の資料は他にも以下の資料がある。
速雄氏は後世に残したい資料を書き写したものと推察する。

[速雄氏が書き写した権田保之助の資料]
―――――

・櫛田民蔵宛の書簡(明治40年3月30日~大正5年9月26日)
 *以下のサイトに権田保之助と櫛田民蔵の書簡のやり取りの一部を掲載
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/05/222937
 *櫛田民蔵から権田保之助宛の書簡は書籍「櫛田民蔵・日記と書簡」(社会主義協会出版局)に掲載
・映画鑑賞日記(昭和4年3月22日~7月2日)
 *以下のサイトに「映画鑑賞日記」全文を掲載
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/01/000031
・未公表随筆「渡欧土産」(未定稿)(昭和5年以降)

―――――

●資料24は、大正13年大正14年に主に独逸ベルリンへ外遊した際の「欧米旅行日誌」全3冊のうちの冊目である。160ページの手帳に、1日1ページ程度、少ない時は半ページ、多い時は3ページ、その日の出来事などが書かれている。
「欧米旅行日誌」は全部で3冊あるが、残念ながら2冊目以降はまだ見ていない(泣)。

 

今回は資料閲覧の概要報告となったが、今後、閲覧した資料の深堀をしたいと考える。

以上です。

講演「大衆娯楽研究の先駆者 権田保之助」が行われました

令和5年3月4日~6月11日にさいたま市立博物館で開催されている特別展「近代人の休日」にて、坂内夏子氏(早稲田大学教授)による講演「大衆娯楽研究の先駆者 権田保之助」が3月12日に行われました。

特別展「近代人の休日」

講演「大衆娯楽研究の先駆者 権田保之助」

[講演概要]
・明治以降の近代化により「余暇」という概念が誕生し「娯楽」が盛んになった
・「民衆娯楽」研究の先駆者として「権田保之助」がいた
・娯楽の教化・改善・取り締まりが行われる中、権田保之助は「政策としての民衆娯楽は、事実としての民衆娯楽に即さなければならない」という立場をとった
・権田保之助の略歴、著作、調査(東京市活動写真調査、月島調査、倉敷工場労働者娯楽調査、浅草調査)、先行研究(日本人と娯楽研究会、大原社研で公開されたデータベース)の紹介
・今、なぜ権田保之助か?(コロナ禍の文化・楽しみ・憩いは不要不急か)
・権田保之助の視点・問題意識(原書だけでなく実際の現場から学ぶことも大切)
 「民衆娯楽の原書は丸善にはありません、浅草にあります」
・「人間生活の創造の為」の娯楽は?(例えば、趣味、やりがい)


[聴講者からのご意見など]
・倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績所)へ行った際に、女工さんの雙六があった。大原社研の創立者である大原孫三郎は、工場労働者の娯楽をどうイメージしていたのか知りたい。
・日本人と娯楽研究会「権田保之助研究第4号」などを大原社研で閲覧したい。
・倉敷工場労働者娯楽調査報告がされた1920年は、1960年前後の高度経済成長での「生活もレジャーも全て企業任せ」という問題と繋がる。
・文部省の民衆娯楽調査、文部省の教育映画調査の結果が、現在の世の中にどう関わっているのか。
・権田保之助の社会的な影響はどのようなものだったのか。
・近代の民衆娯楽の歴史を説明してもらえると思っていた。
・権田保之助の著作を大正当時購入した人は、一般大衆ではなく、専門の研究者や学生だったのか。
・仕事が趣味ですと言う人、趣味を極めて仕事化する人もいると思うが、仕事と趣味が融合していくことについてどう考えるか。


[雑感]
・講演冒頭に講師から「権田保之助という名前を聞いたことがある人はいますか?」と聞いたが、挙手したのは聴講者15人中1人(私だけ)でした。権田保之助は一般的には知られていないことを改めて実感しました。
・初めて権田保之助について聞く人に、分かりやすく説明することの難しさを感じました。
・権田保之助は、当時、一般の人にも広く知られた学者だったのか、専門家や特定の分野の人に知られた学者だったのか、知りたいと思いました。
・権田保之助の生きた時代は第1次産業、第2次産業が盛んな時代であり、労働と娯楽を分けて考えたが、現代は第3次産業が盛んであり、第3次産業においては労働と娯楽が融合していく可能性が高いという示唆を得ました。
・今回の講演は、権田保之助について一般の人に知っていただく良い機会だったと思います。


[追記]
 特別展「近代人の休日」では、活動写真などのパンフレットやチラシ(明治~昭和)、映画雑誌(昭和初期)、内国勧業博覧会関連資料(明治10年、14年)、東京オリンピック関連資料(昭和39年)、日本万国博覧会(昭和45年)のパンフレットや写真、錦絵、蓄音機などの現物が展示されています。

未公開の「権田保之助資料」が公開されました

昨日、法政大学 大原社会問題研究所(大原社研)HPのデータベースに、権田速雄氏が寄贈した未公開の「権田資料」のデータが公開されました。
大原社研HPの「資料検索」ボタンをクリックして、キーワード「権田保之助」で検索すると2,430件がヒットします。
その内、DB名に「OISR.ORG統合データベース」と書かれた2,356件のデータが、今回新たに公開された「権田資料」です。

[大原社研HP]
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/

 

明治から昭和初期の権田保之助の封書・書簡・葉書が全体の半数弱を占め、講演原稿なども多数登録されています。
外遊時に購入したと思われる絵葉書や旅行案内書、冊子、鉄道乗車券、領収書など興味深い資料もあります。
各種調査票、ノート、日記など、貴重な資料も登録されています。
活動写真(映画)に関すると思われる資料も500件程度(全体の4分の1)登録されています。

また、「詩音満 THE CINEMA TASTE」(国際活映株式会社)、「映画解説漫談随筆雑誌 聲陣」(関西説明者協会)、「キネマ公論」(関西弁士協会)、「The Kinema Times」(日本キネマタイムス社)、「週刊 活動写真新聞」(活動倶楽部社)、「煙都キネマ」(煙都キネマ同好会)など大正時代の聞きなれない映画雑誌も多数見受けられます。
権田速雄氏は、父 権田保之助が残した資料を59に仕分けて大原社研に寄贈したことも分かります。
今後の権田保之助研究に大いに役立つものと思います。

 

権田速雄氏が2012年4月18日に大原社研に資料を寄贈してから11年近く経過しましたが、膨大な資料を整理してデータ登録いただいた大原社研の皆さまに感謝いたします。

公開された権田保之助資料データの内訳

特に興味深い資料として以下のデータが登録されています。

No.435 渡欧土産(未定稿) 〔昭和5年6月1日以降〕

No.1365 渡欧土産(未完稿)(外遊随筆) 昭和5年6月1日

No.870 例会来会者芳名録 大正4年3月ヨリ

No.871 公開講演会及び展覧会 来会者芳名録 大正4年4月11日

No.928 〔マキノ教育映画連盟関係書類綴〕

No.929 マキノ教育映画連盟趣旨綱要 昭和2年10月

No.946 牧野教育映画製作所提供 教育映画第壱集 梗概

No.1987 内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画 妖雲散じて 全五巻(趣旨及梗概) 大正13年2月

 

No.435、No.1365は、権田保之助が1924年大正13年)に独逸ベルリンなどへ渡欧した際に執筆して新聞社へ送稿した「渡欧土産」という随筆を、後に校訂して出版しようとしていた未公開の原稿と思われます。


No.870、No.871は、権田保之助などが1915年(大正4年)に設立した「文明学会」に関する資料で、当時開催された公開講演会及び展覧会に関する資料と思われます。文明学会には、小島烏水、渡辺庄三郎、酒井庄吉などの浮世絵関係者、平櫛田中、川上邦世など日本彫刻会の彫刻士、和辻哲郎芥川龍之介など著名人が参加しています。


No.928、No.929、No.946は、権田保之助が星野辰男とともに協力した牧野省三の「牧野教育映画製作所」に関する資料と思われます。権田保之助と「日本映画の父」である牧野省三の関係が明らかになるかも知れません。


No.1987は、権田保之助が監督をしたかもしれない映画「内務省衛生局腸チフス予防宣伝映画 妖雲散じて」に関する資料と思われます。権田保之助の自宅で撮影された映画という情報があります。

官報1925年5月28日

[権田保之助資料の全体概要(59分類)]
1.外遊時来信
2.外遊時旅行案内書 時刻表 絵葉書
3.外遊随筆「渡欧土産」
4.渡欧日記
5.ショウペンハウアー「宗教問答」
6.普選関係
7.月島調査報告書
8.月島調査報告原票
9.浅草調査資料
10.活動写真調査関係資料(大正6年
11.関西弁士協会説明者協会機関誌(T2~S2)
12.倉敷紡績女工趣味調査(大正9)
13.文部省資料(教化映画、演劇調査、民衆娯楽)
14.T10浅草興行場従業員調査
15.T10文部省「民衆娯楽調査」原資料及び調査まとめ原稿
16.新聞切り抜き(大正)
17.雑資料(新聞切り抜き、原稿、調査票、絵葉書、ポスターなど)
18.教育映画関係(書簡、細則、規約など)
19.倉敷調査(第二回)
20.浅草調査大阪道頓堀調査興行場従業員調査
21.雑誌投稿文集
22.T10「浅草地図」関係資料(娯楽研、検討)
23.千葉県農村娯楽調査
24.娯楽関係新聞スクラップ(S12~S16)
25.映画関係資料(絵葉書、書簡、写真、案内状)
26.映画企業調査
27.(雑誌)帝国教育
28.講演草稿
29.権田書簡・櫛田民蔵宛
30.欧州土産(未完稿)
31.外遊時各種パンフレット
32.M44~S6書簡集
33.「大原社研」関係資料(会議録、書簡など)
34.大戦前ドイツに於ける教育映画関係文献
35.?然坊(T9~)
36.美術論集社会論集
37.警視庁統計書
38.文部省関係資料(パンフ類)
39.弁友(T9~T13)
40.映画関係
41.T6~T10警視庁統計書
42.新聞切り抜きスクラップ・娯楽事典関係礼状
43.大正十年浅草調査に於いて獲たる「浅草」及び「道頓堀」社会図原図
44.講演原稿
45.映画鑑賞日記(昭和4年3月22日~7月2日)
46.「浅草調査資料」興行関係各種プログラム類
47.古典映画雑誌パンフレット類
48.T10小学児童娯楽関係
49.独語研究
50.(刊本・ノート5冊)
51.(刊本11冊)
52.(バラ刊本6冊)
53.束1(総覧など)
54.束2(雑誌など)
55.バラ
56.講義草稿(T9女子英学塾)
57.帝大女子英学塾講義草稿
58.文部省関係資料(薄冊など)
59.S7~S17文部省記録

以上