権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

関東大震災から100年

浅草六区側から凌雲閣側に向かって撮影された写真
(出典:「写真集_関東大震災」、著者_小薗崇明、東京都慰霊協会)


今から100年前の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、激甚をきわめたその災害により都内は大きな被害を受けました。
1921年(大正10年)5月~7月に浅草の民衆娯楽(活動写真など)の実地調査と社会地図の作成を行った権田保之助は、「民衆娯楽問題の原書は丸善にはありません。浅草にあります。」と学生の質問に答えたほど浅草好きで、関東大震災の時も即刻浅草を訪れています。
権田保之助の眼には、その時の浅草がどう映ったでしょうか。

 

 

権田保之助は、浅草の社会調査では丁寧な「実査」を行いました。
まず、1店1軒を「実査」し、その間口、奥行き、業種、外観などを記入する個別調査票を用意します。
次に一つのブロック毎に「実査」の地図を作成していきます。
ここでもブロック毎の東西の距離、店の数、その種類、外観、特徴その他地上建造物の全てを記入しました。

このブロック図全部を貼り合わせたのが「浅草社会地図」ですが、その内容は正確無比で、「浅草社会地図」のサイズは8畳間に敷けないほど大きなものとなりました。
田村紀雄「権田保之助・『浅草』風俗の調査」より)

しかし、浅草調査結果はすぐには発表されませんでした。
浅草調査の発表が遅れた理由について、次男速雄氏は以下のように述べています。
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大正10年9月、調査票その他の整理が終わり、その集計編整に取りかかったのであるが、父は丁度その頃多くの仕事を抱え込みすぎていた。
いかに精神の高揚期であり、体力気力が充実していた時期であるとは言え余りにも仕事の量が多すぎる。

若干の年月の前後はあるものの、殆ど同時並行的に行われたと思える仕事を列挙すると次の通りである。
1 倉敷調査
2 文部省全国民衆娯楽調査
3 サービス業従業者調査
4 月島調査報告執筆
5 自著の出版(3冊)
6 芸術教育会の設立と運営

これでは膨大な資料を処理しながらまとめなければならない「浅草調査報告」が遅れるのは当然である。
しかも愛着のある「浅草」の調査なのでより完璧を期したいという思いもある。

そうこうするうちに大正12年9月1日関東大震災がおこり、激甚をきわめたその災害は「浅草」を壊滅せしめた。
復興は早かったが外面的に止まり、内面的様相は大きく変わった。
それは「浅草」に集まる民衆の質と量の変化であった。
「浅草」を作り出した市民層であるプロレタリアとインテリゲンチャは分散してしまった。「娯楽地浅草」もまた分散してしまった。

父は悩んだ。東京の娯楽地図が全部塗り替えられてしまったような現在、震災直前の浅草の娯楽調査の結果を発表することは何の意味があるのか。
「浅草」の再調査は遂に行われなかった。
震災をはさんで「浅草」の新旧を対比することに意欲の持てない何かがあった。
もはや「浅草」ではない、いつまでも「浅草」にこだわるべきではないという思いが日に日に強くなっていく。

しかし調査したときから満8年たった昭和4年10月になって論文を寄稿し始めた。
その「はしがき」には遅れた理由は明記していないが、発表する理由の中に文化史的意義を強調している。
私にはその執筆の動機が震災以前最盛期の浅草に対する郷愁の情と思えてならない。
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また、速雄氏は以下のメモを残しています。
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戦中(晩年)、父の保之助が愛読していた書物がある。
「浅草記」 久保田万太郎著 生活社 昭和一八年七月刊
「寄席風俗」 正岡容著 三杏書院 昭和一八年一〇月刊
の2冊である。
戦時中よく二人の本が出版されたと思う程、時代にそぐわない味のある本である。
「浅草記」の中で万太郎が引用した高村光太郎の詩「米久の晩餐」には赤線が引いてあった。

懐古の情にさそわれたのではないかと思う。
この詩は最早や父の世界ではないのか。「民衆娯楽」と云う味気ない文字と議論は、この中に全部要約されている様だ。限りない共感と郷愁をこめて読んだことだろうと思う。
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(権田速雄「父・権田保之助」より)

権田保之助の学問研究に対する姿勢
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人文科学の研究法は、自然科学のそれとは全然別でなくてはならぬ。
即ちある概念を立てて「何々とは何ぞや」と論じ、公理を定め、定理を立ててゆくことは自然科学の研究法でありますが、人文科学、社会科学に於ては、その逆であらねばならぬ。
ここでは社会現象そのもの、実際関係そのものから出発して逆に抽象的概念に帰納しなくては駄目である。
今日の人文科学、社会科学の不進歩は、この様な抽象的概念から出発するからであると考えている。
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(大正9年4月から大正10年3月の間、女子英学塾で講義した時の冒頭の挨拶より)

東京の下町育ちで、はやくから「浅草」に親しんできた権田保之助は、そこに集まる人々の生態即ち娯楽愛好の傾向に興味を持つようになり、中でも人気のある活動写真(映画)に目をつけるようになりました。
なぜ活動写真が多くの人に好まれるのかという素朴な疑問から、その人々の階層の変化に気がつきました。
権田保之助の民衆娯楽論の出発点でした。
このように社会の実態、現象を調べてその中から真理、法則を発見する方法は権田保之助の信念になっていきました。
それが自分の性分にも合っていたのです。

権田保之助の社会調査、娯楽調査の基調を流れている考え方、姿勢を表わす一寸したエピソードがあります。
以下、次男速雄氏のメモより。
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それは志那事変初期の頃だったと思う。
私のすぐ下の弟とは年令が近く、遊ぶのにも気が合い、行動を共にすることが多かったが、丁度その年頃に多い「物集め」に熱中していた。
あらゆる雑多なものを各々得意になって蒐めていた。映画のプログラム、電車の切符、駅弁の包装紙、マッチのラベル、観光案内のチラシ、地図、箸袋等々。
それこそ乱雑に手当たり次第の感があった。

或日、その様な兄弟の様子を見かねたのか、父が弟に言った。
「お前達はやたらといろいろなものを蒐めている様だが、どうだ、菓子屋の袋を蒐めてみないか。店によって印刷、デザインが違い材質も異なる。
また時々変わるので、それを系統的、時間的に蒐め整理すると面白い資料になるよ。」
弟は資料になると云うことが判らず、父に問いただした。
「紙袋、菓子袋の様なものにも、その時々によって流れがあり、また店の特色が出ている。

一般庶民が日常生活の中で必ず買い求めるものの中味もさる事ながら、役目を果たせば捨てられてしまう包み紙は、その中味を知る事が出来ると同様に、難しく言えば庶民生活史の一面を知ることの出来る貴重な資料になるんだよ」と説明した。
弟はもともと凝り性のところへ持ってきて、父の説明に大いに共鳴したらしく、早速オヤツの為に買ってきた菓子袋は言うに及ばず、あらゆる店の袋という袋を真っ先にその中味より先に取り上げて、スクラップブックに貼り始めた。

そのうちそれだけでは満足せず、自分で菓子屋巡りを始め出した。
それも菓子を買って袋を手に入れるのではなく、直接その店の主人に頼み、菓子袋を貰い始めた。
驚いたのは店の人々で、何にするのだと問いただすと、蒐めていると云う返事しか出来ない。
今ならば社会科の勉強の為だと云う事も出来るが、その頃は店の主人に話したところで狐につつまれた様な有様であっただろう。

その様にして集まったものを眺めて見ると良く判る。即ち、駄菓子屋、普通の菓子屋、高級菓子店によってその紙質、デザインが皆違う。
しかも同じ店のものを時間を追って何枚も集めてみると、丁度日本が戦争に突入した当初と段々戦争が激しくなり、物の統制、物価の高騰の影響が現れ始めた時とではその紙質、印刷が徐々にではあるが変わってくるのが良く判る。

粗悪になり、特色がなくなり、仕舞にはどの店屋のものも同じ紙質、デザインの印刷になってしまった。
そんなことから、弟の蒐集癖も何時しかさめてしまい、興味は他の分野に移ってしまった。
些細なものの中に民衆の生活と社会経済を見出し、その価値を生み出す手法を教えられたことは有難かった。
このささやかなものの見方、考え方は、父の思考方法と興味の視点、把握方法を知る上での参考になるのではないかと思う。
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最後に、「女性 4巻5号」(大正12年11月、プラトン社発行)の中で、関東大震災直後の権田保之助の考え「非常時に現れた娯楽の種々相」が述べられているので紹介します。

[以下、抜粋(一部編集)]
・このような状態に置かれて、何でもなかった平常の状態においては、何でもなく思われて、むしろ閑却されていた事柄が、初めてその意義が顕現された。それらの人間生活における枢要さがひしひしと人々の心に押し迫ってきた。米と水との有難味が、つくづくと感ぜられた。そして私の取り扱おうとする「娯楽」も初めてその意義が人々の心に明らかになった。
・「私は娯楽なき人生は死である。人間に食物と飲物とが必要であるが如くに」というのが、私の持論であった。ところが幸か不幸か、今度の大震で、それが正当であったことが明らかになったのである。
・大震後の十日位は、否な三週日位は、人々は「娯楽」ということなぞ考える余裕がなかった。いや余裕がなかったのではなく、考えることの意識以外であった。
・大震後既に十日にして、日比谷公園の有楽門あたりの賑わいは以前の東京にも一寸見られぬ図であって、日暮れ方から初夜にかけての同所は客種のちがった昔の銀ぶらを偲ばせるものがある。
数百軒の露店の間で最も多いものは酒を売る店である。一升瓶の底を抜いて、その中に点じた蝋燭の灯の前には、娯楽封鎖を受けた男性の群が大コップ一杯15銭の冷酒に喉を鳴らしている。
そして二十日頃には既に大道に、ジャケットを売る店の隣に焼け残った講談本や古講談雑誌の露店が幾つも開かれて瞬くうちに売れていく行くという有様であった。二十日過ぎに丸ビルが開かれて、そこの書店に集まった群れは第一着に軽い趣味的読物を漁りつくしたということである。震災当時は考えることさえ罪悪と思われた寄席や活動写真が十日に入ってそろそろと遠慮しながら興行をはじめたが、何処も此処も大入りを喜んでいるという有様である。
・人間の生活が平衡を失っている間は娯楽を思わないが、娯楽を思わない人間生活は既に平衡を失っているのである。
そして、人間の生活が平衡を保とうとして行けば行く程、娯楽に対する要求が生じて来るが、またそれと同時に娯楽を得れば得る程、人間の生活が平衡に赴き、平衡に赴けば赴くほど専らに娯楽を要求するのである。
・単に娯楽を恵むという古い形式の社会政策的方策に堕することなく、民衆生活と娯楽との関係を極めて緊密に結び付ける様な、民衆生活の中に娯楽あり、娯楽によって民衆の復興的元気が振作される様な徹底的な根本策が樹立せらるることを期待している。
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取り留めのない話になってしまいましたが、コロナ渦の現代にもつながるように感じます。
今日は、今から100年前の関東大震災当時の権田保之助に想いを馳せてみました。