権田保之助ん家

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映画「カリガリ博士」に関して

以前から映画「カリガリ博士」(1919年、ドイツ、ロベルト・ヴィーネ監督)が気になっていた。ドイツ映画黎明期のサイレント映画であり、権田保之助が何度も見損ねてやっと観た映画だからである。
いろいろと調べたことを以下に掲載する。

・本作品「カリガリ博士」は1920年代ドイツの映画界で花開いた幻想奇譚というジャンルの要的存在であり、ドイツ表現主義運動とも連動している。
 映画史最初の20年間に制作されたその多くが、リミュエール兄弟のスタイルをめざしたものだったとすれば、「カリガリ博士」は様式化された幻想的な劇的効果を多用して現実を誇張、あるいは風刺するジョルジュ・メリエスのスタイルに回帰するものだ。
 最初はフリッツ・ラングが監督をつとめるはずだった。本作品は初期ホラー映画の代表作となった。
 (「死ぬまでに観たい映画1001本」スティーヴン・ジェイ・シュナイダー)

・デクラ・ビオスコープ社の筆頭重役エリヒ・ポマーはフリッツ・ラングに「カリガリ博士」を監督するよう指定したが、準備検討の途中でラングは連続映画「蜘蛛」を完成するよう命令された。この映画の配給業者たちがその完成を要望したからである。
 ラングの後任はロベルト・ヴィーネ博士であった。ヴィーネは、ラングが計画したものと完全な調和を保ちながら、オリジナルストーリーの本質的な変更を提示した。オリジナル・ストーリーは真実の恐怖の報告であった。ヴィーネのストーリーは、この報告を精神的に狂ったフランシスがでっちあげて物語った妄想に変形させている。
 (「カリガリからヒトラーへ」ジークフリート・クラカウアー)

・こうした<闇=影>の映画の到達点を示すものとしては、やはり「カリガリ博士」(1919年)と「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1921年)を挙げておかねばならないだろう。
 これらはドイツのみならず世界の怪奇幻想映画あるいは恐怖映画の古典中の古典と目されているが、両者の趣はかなり異なっている。すなわち、前者が有名な表現主義美術と俳優の特徴的な演技で歪曲された街角の恐怖を描いたのに対し、撮影所の外で撮られた最初の恐怖映画としても知られる後者は、実写のボヘミアの森や城館の醸し出す、何千年もゲルマン人をとらえ続けたにちがいない恐怖を観客にもたらす。
 前者では1920年版「巨人ゴーレム」(パウル・ヴェーゲナー、カール・ベーゼ)での建築家ハンス・ペルツィヒによる曲線の遊戯ともいうべき魅惑的なゲットーと並び称されるセットと卓抜な照明効果によって人工的・空想的な<闇=影>が描かれた。
 両者がともに遠くゲルマンの神話・伝説に繋がる<闇の神話>の正当な継承者であることには疑いがない。
 (「物語としてのドイツ映画史」瀬川裕司

1920年2月、ドイツウーファのマーブル館で「カリガリ博士」は封切された。マーブル館は第一次世界大戦以前に建築された豪華な劇場で、ジークフリート・クラカウアーに「娯楽の宮殿」と呼称された高級映画館の1つである。
(「戦時下の映画」岩本憲児)

第一次世界大戦後のドイツ映画が、初めて我が国のスクリーンに映されたのは、大正9年の「ヴェリタス」である。翌10年になると、表現派映画の代表作「カリガリ博士」(ロベルト・ヴィーネ監督)、ドストエフスキーの名作によった「カラマゾフの兄弟」(カール・フレーリッヒ監督)、大胆なエロチシズムをバーレスクの型式で描いた「花嫁人形」(エルンスト・ルビッチュ監督)、皮肉で陰鬱な「マリア・マグダレーナ」(ラインホルト・シュンツェル監督)である。この4つの作者は、当時の独逸映画の性格を代表していると信じる。
 表現派芸術は、戦後のドイツが生んだ新しい芸術型式である。異様なる装置とともに、グロテスクに歪んだ人間の表情、動作を見る。
 真実なるものを、真実なる形態によって追いつめることを本願とした映画にとって、この作品のもたらした影響は注目しなければならない。
 (「映画五十年史」筈見恒夫)

・映画「カリガリ博士」は見事なドイツ文化、ドイツ美術だ。この表現型式は、当時、ドイツしかできなかった。当時のドイツはモダンでハイカラだった。ドイツの優れた文化を知っていたからマレーネ・デートリッヒは米国へ行って粋だった。後にヒトラーがドイツの文化を全て消してしまった。
 (淀川長治 解説)

・中学生のときに、新宿かな、洋画を見に行った。まだ活弁だった。真っ暗な劇場の中、魂を揺すぶられるわけだ。「カリガリ博士」の始まり。闇の中の「キャー」という声は徳川夢声ですね、サイレント映画なんだから。徳川夢声府立一中だけど、一高の受験に失敗するから旧制高校に入れない。ドイツ語なんかしゃべれないから、カリガリ博士のテクストを見てもドイツ語から訳したんじゃなく、自分で映画を見て自分でせりふを工夫した。それは、徳川夢声の台本なんだ。
 (「日本人は何を捨ててきたのか」鶴見俊輔関川夏央

権田保之助は、1929年(昭和4年)3月29日にシネマ・パレスで「カリガリ博士」を観ている。
権田保之助は1921年にキネマ倶楽部で封切されたのを見損ない、渡欧中1925年にベルリンで上映されたのを見損ない、1929年3月29日にシネマ・パレスでやっと観ることができた。その時の感想を「映画鑑賞日記」に記している。

[昭和4年3月29日(金曜)]
雨降りしきる中を、松屋で用達しをすませて、午後1時前に『シネマ・パレス』へ来た。
それは「カリガリ博士」を見度い為めである。「カリガリ博士」は今までよくよく縁がなかった。
大正十年(1921年)浅草調査をした其の時にキネマ倶楽部で封切されていたのを僅か二三分間見た丈けで、遂に機会を逸し、外遊して伯林で夏(1925年の)Tauentsien-Palastに上映されていたのに、
これも遂に見逃して仕舞った。
所が今度「独語研究」を創刊して其創刊号の巻頭には口絵として「カリガリ博士」の映画の一場面を特に載せた。
その雑誌は昨日、見本が一部届けられたのである。
其う云ういきさつでどうしても今度こそ見て置かねばならぬ映画だったのだ。
カリガリ博士」は、何としても優れた記念である。
「殴られる彼奴」もいい映画だ。
エル・ドラドー」は一番感心され得なかった。

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独語研究 創刊号表紙

「独語研究」創刊号は昭和4年3月28日に印刷され、4月1日に発行されているので、映画鑑賞日記に書いてある日にちと一致している。
創刊号の巻頭の口絵には「カリガリ博士」の映画の一場面の写真と「Das Kabinett des Dr. Caligari」という文字が書かれている。独逸での映画の題名は「Das Kabinett des Dr. Caligari」(カリガリ博士の部屋)だったようだ。

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独語研究 創刊号口絵

 

創刊号で権田保之助は「表現派映画」についての独逸文献を翻訳して日本語と対比させて紹介している。

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表現派映画

また「独語研究」で権田保之助は他にも映画に関する記事を掲載している。
・発声映画
・ソヴィエト露西亜の映画政策
・映画の国際性

私もDVDで映画「カリガリ博士」を2回視聴したが、1回目の時よりも2回目の時の方が細部まで観ることができ、新たな発見もあり面白い。
背景の異様なデザイン、チェザーレが目を覚まして動き出すシーンは実に見事で素晴らしい。

私が視聴したカリガリ博士はサイレントだが、権田保之助が見たカリガリ博士はきっと活弁だったのだろう。
活弁カリガリ博士も上映される機会があるようなので是非見てみたい。

新宿武蔵野館で上映された活弁映画「カリガリ博士」]
 http://shinjuku.musashino-k.jp/100th/movies/1070/