[概要]
おもちゃ絵(子ども向けの浮世絵)は使って捨てられてしまう安価な子供の玩具だとして文化的価値が見出されなかった大正初期において、権田保之助はおもちゃ絵に興味を覚えて研究し、体系的に分類するとともにおもちゃ絵に文化的価値を見出し、日本最初の浮世絵研究誌「浮世絵」に大正4年7月から5回に亘って「文明問題としての玩具絵(おもちゃ絵)の研究」と題する論文を投稿している。
また、自らおもちゃ絵を収集し、大正7年2月には白木屋呉服店での「おもちゃ絵の展覧会」におもちゃ絵を出品している。
権田保之助はおもちゃ絵をどういう観点で体系化して分類したのか、どこに文化的価値を見出したのだろうか。
1.日本最初の浮世絵研究誌「浮世絵」の創刊
「浮世絵」は二代目酒井好古堂店主の酒井庄吉氏が1915年(大正4年)6月から1920年(大正9年)9月までの6年間で55号発行した日本最初の浮世絵研究誌です。
小島烏水、坪内逍遥、宮武外骨、三田村鳶魚、石井研堂、桑原羊次郎、星野朝陽、漆山天童、大槻如電、林若樹、内藤鳴雪、淡島寒月、朝倉無聲、岡野知十、武岡豊太、野崎左文、関根黙庵、油井夫山、山中共古、山下詳光、井上和雄、藤懸静也、橋口五葉、相見香雨、島田筑波、永井荷風ほか錚々たる当時の文人、研究者が執筆陣で、多くの人々の注目を集め絶賛を博しました。今は、浮世絵研究者にとって貴重な資料となっております。
(浮世絵・酒井好古堂HPより)
権田保之助は、おもちゃ絵の定義を「子供を享楽の主体とする版画である」とし、大正4年9月発行の浮世絵研究誌「浮世絵」第2号から玩具絵(おもちゃゑ)に関する論文を投稿しており、第4号において玩具絵を体系的に分類している。
玩具絵に関する論文は、権田保之助以外に第5号と第14号に松村翠山が、第19号に若尾悍馬が手遊絵(おもちゃゑ)として投稿し、若尾悍馬は第19号において手遊絵を分類して例示している。
2.おもちゃ絵に関する権田保之助のかかわり
●1913年(T2)頃から「おもちゃ絵」を収集し始める。
・これからお話致そうと思う「おもちゃ絵」の話は、私が5、6年前から自分の趣味として、集め始めたものについて、これに何等かの意味をつけたいという考えから急にやりだしたもので、特別の方針、主義、目的のもとに集めてその結果を発表するというのではありません。(大正8年3月1日発行の「幼児教育」(日本幼稚園協会)掲載の「日本幼稚園協会2月常会の講話」より)
●1915年(T4年)2月27日~6月26日、文明学会設立。菅原教造も参加。
・1915年4月11日の公開公演及び展覧会に酒井庄吉さん(「浮世絵」創刊者)も参加。
[文明学会について]
大正4年、次のメンバーにより「文明学会」という会が創立された。即ち、櫛田民蔵、森戸辰男、村岡典嗣、菅原教造、権田保之助である。その設立に至るいきさつは判らないが、文明という語はその時代のわが国思潮界の流行語として登場してきたばかりであるので、時代風潮の影響を見逃すわけにはいかない。・・・このささやかな学会は、第1回例会を大正4年2月27日に開催し、以後第2回3月27日、第3回5月16日、第4回6月26日に行い、その間4月11日に公開講演会及び展覧会を開催している。各々の内容を挙げてみると
・第1回例会 工芸美術運動の歴史と現状 権田保之助、明治時代版画用日本紙に就いて 松井清七、木版画の特徴 渡邊庄三郎
・第2回例会 西洋画家の見たる我国の自然及び文化 菅原教造、徳川時代の絵草子と紙屋 松井栄吉
・第3回例会 有害通俗文学と有害少年文学 田中梅吉
・第4回例会 西洋名曲の蓄音機演奏、各曲に就いて音楽史及び美学上の解説 田辺尚雄
・公開講演会・展覧会 芝居絵と時代生活 菅原教造、広重の風景画の肉筆及び版画 小島烏水、日本及び西洋の芝居絵 約150点、広重筆風景画の肉筆と版画 約100点
例会、講演会出席者のうち後年各々の分野で活躍する人物を挙げれば、和辻哲郎、松村武雄、鳥居龍蔵、石田幹之助、大類伸、土居光知、奥野信太朗、松本亦太郎、芥川龍之介、辻潤、川上邦世、平櫛田中などである。
(権田保之助研究第2号「父・権田保之助」より抜粋。昭和58年、日本人と娯楽研究会)
●1915年(T4年)5月9日 伊勢辰さんのもとで菅原教造と一緒に玩具絵の収集を見る。
一週間後、酒井好古堂でかなりよく集まった玩具絵を調べて分類。
●1915年(T4年)浮世絵研究誌「浮世絵」へ菅原教造が論文掲載
「錦絵と文明政策」
・新版画の運命は如何に
・新原画の勃興と四つの傾向
・古版画は未だ時代の新参者
・古版画趣味振興の三つの運動
・新版画の開拓と四つの傾向
●1915年(T4年7月)浮世絵研究誌「浮世絵第2号」へ論文掲載
「文明問題としての玩具絵の研究(一)」
・玩具絵の定義
玩具絵の定義を「子供を享楽の主体の中心とする版画なり」とした。
・玩具と文明
・男の児の玩具と女の児の玩具
・権田保之助がおもちゃ絵に対して興味を覚え注意を向けるようになったのは、T4年5月9日の夜神田元岩井町の玩具問屋伊勢辰さんの許で菅原君(菅原教造)と一所に玩具絵の収集を見せていただいたのがそもそものはじめ。それから一週間ばかりたって好古堂でかなりよく集まった玩具絵を調べて分類し、ようやく物に成りかけた。
(注)以下、「おもちゃ絵 江戸庶民のエスプリとデザイン」(飯沢匡、広瀬辰五郎 著、徳間書店刊)より抜粋。
おもちゃ絵の版元「いせ辰」の三代目は明治15年(1882年)あたりから、しるこ代を貯めておもちゃ絵を買い集めていたと後年述懐しているから、「浮世絵」創刊号を大正4年6月15日に発刊した版元の酒井好古堂が三代目「いせ辰」の収集を承知していて権田氏を紹介したことと想像される。
(注)浮世絵研究誌「浮世絵」への権田保之助と菅原教造の投稿論文のタイトルに「文明」と付いているが、2015年2月に設立した文明学会と関係しているのだろうか。権田保之助と菅原教造は文明学会の設立メンバーである。
●1915年(T4年8月)浮世絵研究誌「浮世絵第3号」へ論文掲載
文明問題としての玩具絵の研究(二)
・玩具絵と江戸の文化
・玩具絵の分類
・玩具絵はこれを如何に分類したらよいであろうか、思うにこの分類の立場はその研究の側面如何によって異なり得るものであろう。即ち或いはこれを教育的側面より見、或いはこれを芸術という側面から眺め、或いはこれを経済的側面より観察するによって、それぞれ異なった分類をなすことが出来ると思うのである。
・玩具絵が江戸時代に盛んであった所以は他でもない。それは時代が封鎖的都市経験の時代であって、経済がなお未だ家を離れず、手工業が最も枢要なる工業経営形式となっていた結果は生活が到底家内的室内的たらざるを得ぬものである。しかしてこの室内的生活における玩具としては絵としての玩具の右に出るものはない。玩具絵が江戸時代に枢要の地位を占めていたことは決して偶然ではないと云わなくてはならぬ。然るに時代は変わって明治となった。もっとも明治となっても其の始め20年間位はなお生活は江戸時代の継続であった。従って玩具絵はなお余喘を保ちつつあったのであるけれども、日清戦争によって資本主義の第一波が日本の岸を襲い、次いで日露戦争によって国民経済の基礎が確立し、生活は戸外的となり公開的となって玩具絵は其の宿るべき家を失い、器具としての玩具が戸外を飛び回り、空を翔るようになった。かくて玩具絵は江戸の文化を終始したのである。
●1915年(T4年9月)浮世絵研究誌「浮世絵第4号」へ論文掲載
文明問題としての玩具絵の研究(三)
・「他目的の玩具絵」と「自目的の玩具絵」はそれ程厳密な区別が付け得られるものではないのである。それには何れにも付かぬ中間物があって、考えようによっては他目的のものともなり、自目的のものともなるものがある。中間物や過度現象があって分類に困難を来すはただに此の玩具絵のみかは、人間一切の現象皆その選に漏れないのではあるまいか。
・玩具絵を体系的に分類。
●1915年(T4年10月)浮世絵研究誌「浮世絵第5号」へ論文掲載
文明問題としての玩具絵の研究(四)
・他目的の玩具絵と自目的の玩具絵との特徴
・他目的の玩具絵は其の当初の成立動機によって必然的に子供に対しては対立的のものとなって来なくてはならぬ。即ち其れは一段高い所から子供を指導するとか、他の優れた世界から凡てに劣った子供の世界を教化するとか、或る他の実際的目的に子供を向けるとかいう風で、いつでも子供と相対立している。
・自目的の玩具絵は矢張り其の成立の動機によって子供に対して融合的のものとならざるを得ない。即ち其れは一段高い所から子供を指導し教訓するというのではなくして、子供と同じ列に立ち、子供の生活に伍して行こうとするものであるから何処までも子供と一所になろう子供と結び付こうとしている。言い換えれば其の絵の表す世界は子供の世界もしくは其の継続又は延長なのである。
●1915年(T4年11月)浮世絵研究誌「浮世絵第6号」へ論文掲載
文明問題としての玩具絵の研究(五)
・玩具絵の各種目に現れたる文化
・玩具絵の各種目に於いて私達は如何なる文化の側面を表すものであろうか。
第一に所謂「他目的の玩具絵」は如何。
「教訓画」を借りて行った其の時代の教育の方法及び趨勢を知り、併せて其れに淵源した時代の知的生活及び情意生活を窺うの一端を得ることが出来るであろう。
「凧の画」及び「凧絵」に現れていることによって其の時代の人々の心を動かした理想を知り得ようし、「疱瘡画」なるものを何故に生ずるに至りしか、疱瘡のまじないとして何故殊更に絵画を取るに至りしかをとふ点に時代の迷信と共に時代の絵画の位置を知る糸口を発見することが出来はしまいか。
次にこの「教訓画」にせよ「凧絵」にせよ又「疱瘡画」にせよそれらが漸次其の最初の厳粛なる目的より脱化し行いて益々自目的のものと化し行き滑稽化され享楽化され行く其の変遷の間に其の動因となれる時代の思潮、時代の傾向を察することが出来はしなかろうか。
第二に所謂「自目的の玩具絵」はどうであろうか。
「子供のみの遊ぶ自目的の玩具絵」なるものによって我々は其の時代の生活の縮画を見ることが出来るのである。男の子の遊ぶ画によって時代生活の外的側面を窺い、女の子の戯む画を通して時代生活の内的側面を知ることが出来るとは既に述べた所であるが、それのみならず男の子が喜ぶ「武者絵」「相撲絵」によってその時代の男性の理想を推察し得るが如く、女の子が楽しむ「あねさん絵」「役者絵」によって其の時代の女性の理想を断ずる事が出来ると思う。
次に「大人が指導者となりて子供の遊ぶ自目的の玩具絵」なるものによって我々は其の時代の家内遊戯法を知ることが出来、ひいては家庭生活の有様を推察し更に家族組織及び当時の社会組織をさえ推論し出すことが出来るものである。殊に此の玩具絵の盛んであった時代がかの封鎖的都市経済の時代、警察国家の時代であったということを考えてくると此の種の玩具絵の研究が少なからぬ意味を有してあるということを知るに難くはないであろう。
なお進んで此の玩具絵は全体を大観し来たり、ある時代には其のある種のものが盛んに行なわれしが、次の時代には如何に推移し、なお其の次の時代には如何に変遷し行き たるかを見て、其の進化の奥に潜む文化進展の跡を尋ねることも亦忘れてならぬ大問題であると思う。それらのことが大成された時には、玩具絵の文明的研究は其の完結を見得たと云い得るのである。しかし到底容易なる問題ではない。
私は以上でもって玩具絵が文明問題として如何の意義と重要さとを有しているかを述べ、将来私の此の方面における研究の筋書をざっと書き並べて見たに過ぎないのであった。此れを足場として初めて渾然たる玩具絵の研究の大成するのは此れを将来に期しようと思う。(完)
(注)現存するおもちゃ絵は少なく、未だにおもちゃ絵の全貌を掴めていない。
権田保之助が将来に期したことについて、未だ誰も大成せず。
●1915年(T4年12月)浮世絵研究誌「浮世絵第7号」へ論文掲載
三都の新浮世絵
・東京の浮世絵師は近い過去の江戸という時代-浮世絵を渾熟せしめ「浮世」という気分を爛熟せしめた江戸という時代になお餘りに多くの憧れを懐いて居るものと見えまして彼らが筆にする絵は大多数が其の時代の生活内容を現すことに努めて居るように思われます。
今は古い時代の錦絵を引き伸ばして屏風や懸物に描いているべき時代ではないと思います。新しい生活に徹した芸術家が動きつつある現在の浮世味を一管の彩筆を通じて遡り出さしめなくてはならぬ時であると信じます。浮世絵が現代に復活する道はといいますと、私はこれだと思わすには居られません。
●1916年(T5年2月)浮世絵研究誌「浮世絵第9号」へ論文掲載
玩具絵の趣味(上)
・十数年以前にあっては、心ある2,3の人々を除いては、殆ど其の存在の価値を認めずしてあった浮世絵が今日にては社会の広い範囲に愛玩珍重せられるに至り、古木再び春に会する盛運を見るに至ったことは誠に興味ある現象と云わなくてはならぬ。
浮世絵が斯く一般的社会の興味をそそりつつある今日に於いて、其の一分子なるわが玩具絵が斯くの如く甚だしく過少視され、否な殆ど全く其の存在の如何をすらも忘れられつつあるという其の事である。
・私はここに児童の心理を解剖して其れが知情意の三方面に如何なる現れを示すかを細論するいとまなきを告白する。児童の心の働き方を其の知的側面に於いて「直観的」、其の情意的側面に於いて「原始的」もしくは「素朴的」、心全体の活動の側面に於いて「空想的」と見んと欲する。
空想世界の主人公たる子供の為の玩具絵には、あらゆる物に精神がある。そして主人公の為に凡ての物が躍然として生命の諧音を高唱している。これが芸術の表現に影響してその題材は奇想天外となる、其の構図は自然法の破壊となる、その色も、その線も小さな世界の制約を超脱している。而して凡てを超えて生命が高鳴っている。玩具絵の趣味は此処に至って遂に其の最高点に達するものである。斯くの如き絶大な趣味を我々に与えるものわが玩具絵を除いて果たしてよく何物があるであろうか。(未完)
●1916年(T5年6月)書画骨董雑誌へ「玩具絵の話」を投稿
・玩具絵は安政前後から盛んになったようである。もっと古くから玩具絵らしいものはあったけれども、安政頃から明治維新までは非常に発達して、其の種類も多くなり亦表現の方法も進んでいた。そして明治に入ってから、他の版画が凋落したと同時に、漸く衰退の気運に向かったが、玩具絵は他の版画とは社会的地位を異にしていた。即ち他の古い版画に対する時代の好尚が漸次変遷して来て、玩具絵と云うようなものが出来るという時の関係から見ても、他の版画より生き伸びられる力があった。玩具絵の大天才とも云い得る芳藤がいた。そして明治10年前後を境として、自由にその天分を発揮していたので、一には時代の関係から、二には人の関係から、他の版画に比べて玩具絵だけは相当に見られるものがあった。しかし印刷物の変遷、推移、絵の具の粗悪になったのが原因して、流石の芳藤も此の大勢を挽回することが出来ず、明治10年位を最後として滅亡してしまった。
何と云っても芳藤が一番偉い。他の筆者等が子供の享楽を忘れて、大人が鑑賞して味ふべきものを描く傾向が有るにも係らず、芳藤(よし藤)は常に子供の心と其生活を徹底せしめて描いたので、玩具絵(おもちゃ絵)の独歩と云う事が出来る。
・子供の遊戯には時代の大人の生活が小さく融け込んで表れているから、時代生活の状態を知ることが出来て、それが知的ばかりでなく情的に同感することができる。それに子供は最も新しいものを好むから、其の結果として玩具絵には最も新しい文明現象が表れている。即ち時代生活現在の有様から、新しい時代に転化して動き行く有様を表している。これは玩具絵の没することの出来ない特色で、他の版画の回顧的であって、既に出来上がった文明の中から描こうとして居るのに対して余程違っている。
・玩具絵を見て面白味を感じる所以のものには2つの原因がある。
その一は子供の有する唯一の芸術作品であるということである。子供の享楽を主体としているから、子供の心に伴って、それに基づいているのである。まず第一に稚気で無邪気で、原始的な気持ちである。第二に人生味に富んでいて他の版画の回顧的なるに比べて、現在の生活を表してしかも楽天的なることである。第三に自然を霊化して死んでいるものでも生かしていることで、家でも舟でも生命あるもののように取り扱っていることである。この自然法の破壊と因果律を超越している点は、兎角我々が理屈っぽく総てに圧迫されているのを思って、大痛快を感ぜずには居られない。
その二は他の版画とは違って、子供が持つものであるから値を安くしなければならないので、色なども成るべく範囲を少なくして、一色で多くの意味を表しているから面白いのである。言い換えれば象徴主義であって、稚気を帯び古拙な所が面白いのである。
・趣味のある玩具絵に依って教育された江戸っ子は、今日から考えると幸福であったろうと思う。そして今日の教育が餘に現実的で、所謂科学的打算的であって、豊富な趣味のある情意的教育が疎かにされているのは、今日の子供に取って気の毒なことである。
世の中が漸次進歩して種々のものが解放されるに及び、まず社会的の階級が除かれて、次に近頃では婦人問題や子供の開放の叫びを聞く。私の考えるところでは子供を大人から解放することである。そして幼年雑誌や少年雑誌の絵をして、大人を中心とすることを止めて、子供の生活を洞察し子供の享楽の主体としてほしい。そして芳藤の如き大天才が出て、これ等の雑誌に一大革命の起らん事を希望するのである。
●1917年(T6年9月)雑誌「錦絵」へおもちゃ絵に関する論文を投稿
おもちゃ絵とは「子供を享楽の主体とする版画である」と定義し、以下のように体系的に分類している(「浮世絵第4号」掲載の分類が一部変更されている。変更箇所を赤字記載)。
〇「おもちゃ絵」の中堅
1.現相界を描いたもの
(イ)子供の世界を写し出したもの
「当世子供遊び」なぞいう題での男の児、女の児の色々な遊び。
(ロ)大人の世界を写し出したもの
「大名行列」「町火消」「祭礼」「台所道具」「お稽古」など。
(ハ)大人の世界を子供にて表したもの
子供の火消しや大名や山車のお囃しなど。
(ニ)人間の実生活を動物にて表したもの
「猫のお湯屋」「獣物商人尽し」など。
(ホ)新興の文明現象を写し出したもの
「汽車」「鉄道馬車」「人力車」、近頃では「飛行機」「自動車」など。
(ヘ)「何々尽し」と云って同種類のものを列挙したもの
「虫づくし」「獣物づくし」「名馬尽し」「樹木尽し」「面尽し」など。
2.仮相界を描いたもの
(イ)子供の理想界を表したもの
「武者絵」「相撲絵」「あねさま絵」「役者絵」。
(ロ)童話を表したもの
桃太郎、カチカチ山、猿蟹合戦など。
(ハ)芝居を表したもの
役者を皆な子供にしたり、動物で表したりなど。
(ニ)全然絵師の空想を表したもの
「ほうずき遊び」など。
〇第二次的の「おもちゃ絵」
(1)実用的意味が変じて「おもちゃ絵」となったもの
疱瘡絵など。
(2)凧絵
凧に模した絵。
(3)教訓絵
子供に人倫五常を教えようという意味の絵。
(4)それを細工なぞして楽しむもの
「千代紙」「切組絵」「切組み細工」「切組み燈籠」など。
(5)絵を応用した玩具
「十六むさし」「目かつら」「福笑い」「双六」「かげ絵」「判じ絵」など。
(6)俚謡を絵に描いたもの
「ちんわん節」など。
(7)辻占絵
辻占に出ている絵。
●1917年(T6年10月)浮世絵研究誌「浮世絵第29号」へ論文掲載
師宣寄進の鐘
●1918年(T7年2月)白木屋呉服店での「おもちゃ絵の展覧会」におもちゃ絵を出品
・権田保之助は、大正7年(1918年)2月5日から20日に白木屋呉服店(現在の東急日本橋店)で開催された「おもちゃ絵の展覧会」におもちゃ絵を出品しています。
当時の「おもちゃ絵陳列品目録」によると、巌谷小波、橋田素山、権田保之助の3氏が24点を、三代目いせ辰が80点を陳列しているようです。
・明らかに総括的な意味での「おもちゃ絵」ということばが用いられたのはこの時が初めてで、それ以前は「おもちゃ絵」ではなく、絵草紙、または一枚摺りの名で通用していたようです。
(「おもちゃ絵 江戸庶民のエスプリとデザイン」飯沢匡、広瀬辰五郎 著、徳間書店刊)
●1919年(T8年2月)日本幼稚園協会2月常会でおもちゃ絵に関して講話
・これからお話致そうと思う「おもちゃ絵」の話は、私が5、6年前から自分の趣味として、集め始めたものについて、これに何等かの意味をつけたいという考えから急にやりだしたもので、特別の方針、主義、目的のもとに集めてその結果を発表するというのではありません。
・別室に「おもちゃ絵」を陳列しておきましたが、これはもとより趣味の上から集めたにすぎぬものですから、大海の一滴にもあたらぬのですが、今日は先ず実物を見ていただくを主として、それに付け加えて少しばかりお話したいと思うのであります。
・「おもちゃ絵」は子供がもてあそぶものですから非常に手垢でよごれています。お目にかけるものの中にも紙の左右の端が手垢がつきボロボロになっているのがあります。きたないと云う感をお起しになるかもしれませんがそこをよくご了解願いたいと思います。
・私がかつて東京で有名な、おもちゃ絵蒐集の人から見せてもらったものは、玩具を主題とした絵ばかりでありました。しかし、私の考えでは、かかるものは大人が喜んで弄ぶもので、大人の一種の趣味のために存するものであると思う。私の云う「おもちゃ絵」とは、子供を主としたるもので、おもちゃ絵の享楽の主体が子供にあると云うことである。
・製作の数から云ってもその価値から云っても第一は芳藤で芳藤は実に天才です。彼によって「おもちゃ絵」は大成し、またこの人とともに亡びたのであります。
・素朴なること。子供に合う1つの味としては素朴的と云うことで、全体の構図も色も形も、また、その意味も素朴である。まわりくどい堅苦しいことは棄てて、ただ有りの儘を無邪気にあらわす、これが「おもちゃ絵」のもう1つの味であります。近代文明の中に毎日押し込められている我々はこの絵に接する時、実に一種の自由を感じ、新しさをうれしく思うのであります。
・清新なること。子供は停滞を忌むものです。子供は実に飽きやすく常に新しい刺激を要求して之に同化し共鳴するものであります。彼等には伝説もなく、古めかしい、いやな約束もありません。
そこで「おもちゃ絵」では伝説とか習慣とか云うものを顧慮する必要がなく、飛行機が出来たと云えばすぐに之を絵にする。・・・大人を対象として書いている文展の日本画には未だ飛行機も自動車もあらわれず、相変わらず籠に乗って旅をするところや、牛の車に乗って春の日を櫻狩に出かける人をかいているのを思えば「おもちゃ絵」はこれによってのみ味わい得る一種の鮮新の感がおこるのであります。
・自由なること。子供には一定の型にはまって物事を見ると云うことが出来ないので、有りの儘、正直なもので厭なものは厭ですし、食べたければ遠慮なくその欲を充たすことに熱中し、悲しければ思うままに泣くという風であります。そこで「おもちゃ絵」にもその構図、形、色、題などに実に自由奔放なところがあって古き型に捉われない、
これは四六時中、形にのみ押し込められている我々が見て一種の面白味と軽快なる感とをおこす所以であります。
・芳藤は平凡な絵書きで、名を西村藤太郎と呼び、国芳の門下生でありました。初め広く美人画、武者絵などを書いて居りましたが明治維新の十数年前から「おもちゃ絵」を書くようになり、ここに一生面を開いたのであります。その絵は質においても量においても、他の人のとても及ばぬところです。浅草に住み純粋の江戸っ子でした。彼の生活の一面をあらわす逸話が残って居ります。
それはある時、彼は朝湯に出かけ褞袍(どてら)をひっかけて湯から出てくると、獅子舞が太鼓をたたいて行くそのあとから大勢の子供がついて行くのに会いました彼は手拭を肩にかけて、そのまま何処までも之のあとをついて行った。家の人はどうしたことかと不審に思っていると、間の抜けた様な顔をして塵だらけになって、ひょっこり家に帰ってきたと云うことですが、これは彼がいかに子供の心に同感し、子供とともに生活したかを語るものでしょう。実際彼の絵を見ていると子供に対する無限の共鳴同感のあふれているのを感じるのであります。
今日、一人でもかかる絵書きがあればよいと思う。芳藤は難しい教育上の意見、主義は知らなかった。しかも彼は、子供とともに喜び、子供の生活の中に深く生きていこうとする哲学を知っていた。
彼には児童心理学はなかったが実際体得した同感の心理学があったのです。
(「幼児教育」日本幼稚園協会、大正8年3月1日発行)
●1961年(S36)権田保之助が収集したおもちゃ絵は酒井考古堂で買い取っていただく。
・権田保之助が収集したおもちゃ絵は、権田保之助の死後、戦後の混乱期で生活に困り、昭和36年(1961年)に酒井好古堂で買い取っていただいた。
昭和36年の速雄氏(権田保之助の次男)の手帳に
2/13(月)浮世絵複製を酒井好古堂にて1,000円で売却
2/14(火)おもちゃ絵を酒井好古堂に持参。2/16(木)7,500円で売却
3/3(金)浮世絵一包(おもちゃ絵含む)を酒井好古堂へ持参。3/4(土)3,500円で売却
と記載されている。
当時のサラリーマン平均月収が4万円程度で、一部の収集家を除くと、おもちゃ絵は殆ど一般に関心が無かった時代なので、売った枚数は不明だがかなりの額で買い取っていただいたものと考える。
現在、松本にある日本浮世絵博物館に所蔵されていると伺っている。
●2012年(H24)頃 権田速雄宅にて、権田保之助が収集したおもちゃ絵の一部が見つかる。
・昭和36年に、よし藤などのお金になるものは買い取っていただいたが、買い取っていただけなかったおもちゃ絵は当時価値がないと認識され、速雄氏が廃棄しようとした時に速雄氏の奥さまが譲り受け、その後箪笥の着物の下に保管していた。保管していることをすっかり忘れていたが、平成24年頃に自宅の片付けをしていて偶然に見つかった。
明治・大正期に発行された、尽くし絵5枚、着せ替え絵(両面絵)30枚、うつし絵7枚、模様紙・千代紙16枚、組上げ絵8枚の計66枚のおもちゃ絵だ(うち10枚は明治6年から明治政府主導で発行された「教育おもちゃ絵」)。
色鮮やかで、大切に保管されていた様子が伺える。
3.考察・雑感など
●権田保之助のおもちゃ絵の体系的分類について
権田保之助は、おもちゃ絵の定義を「子供を享楽の主体とする版画である」とし、大正4年9月発行の浮世絵研究誌「浮世絵」第2号から玩具絵(おもちゃゑ)に関する論文を投稿しており、第4号において玩具絵を体系的に分類している。
玩具絵に関する論文は、権田保之助以外に第5号と第14号に松村翠山が、第19号に若尾悍馬が手遊絵(おもちゃゑ)として投稿し、若尾悍馬は第19号において手遊絵を分類して例示している。
当時はまだ、おもちゃ絵は使って捨てられる安価な子供の玩具だとして文化的価値が見出されず、販売価格も1枚20銭と安価であった。
また、日本最古の浮世絵専門店である浮世絵・酒井好古堂HPに「おもちゃ絵を収集し、最初に体系的に分類したのは、権田保之助さんである」と掲載されている。
http://www.ukiyo-e.co.jp/39943
これらの事実から、権田保之助はおもちゃ絵を初めて体系的に分類した人物だと考える。
権田保之助は、おもちゃ絵を「自目的のもの」と「他目的のもの」とに大きく分類している。「自目的のもの」には「理想界」と「仮想界」があり、男の子の理想界を表したものには武者絵と相撲絵などが、女の子の理想界を表したものには、あねさん絵、役者絵などがある。一方「他目的のもの」には教訓絵、凧絵、疱瘡絵がある。
「浮世絵」への投稿論文の内容から、権田保之助は文化的側面からおもちゃ絵を捉えて体系化し分類したことが伺える。
現在では、おもちゃ絵の文化的価値が認められ、コレクターも多く、オークションでも高値で取引されている。おもちゃ絵に関する展覧会、出版物も多く、絵柄や形態・種類、遊び方というさまざまな観点でおもちゃ絵が分類されているが、未だおもちゃ絵の体系は確立していないように感じる。
(参考)他の研究者のおもちゃ絵分類
(1)「江戸明治 おもちゃ絵」(上野晴朗 歴史・民俗研究家、前川久太郎 理学・医学博士、1976年)
・組上げ、着せ替え、両面合せ、折り替わり、切抜お客遊び、影絵・あやつり人形、替り絵、子供風俗、祭り・年中行事、手遊び、判じ絵・謎づくし、擬人画、語りもの・語呂合せ、子供ばなし、図鑑がわり、単語づくし、凧・面・羽子板、武者絵、戦争絵、芝居絵、すごろく・かるた、千代紙、新聞
(2)「江戸の遊び絵」(国際浮世絵学会常任理事 稲垣進一、1988年)
・平面の遊び(絵文字、寄せ絵、上下絵、五頭十体図、一頭多体画、一人三面画、擬人画)
・立体の遊び(蛸絵、畳み変わり絵、仕掛絵、両面絵、組上絵、造り物、身振絵、影絵、鳥目絵)
・線の遊び(文字絵、釘絵、大津絵、一筆画、ひも絵)
・言葉の遊び(金の成る木、判じ絵、地口絵)
(3)「遊べる浮世絵 体験版・江戸文化入門」(国学院大学 藤澤紫、2008年)
・戯画、判じ絵、影絵、おもちゃ絵(子持ち絵、絵双六、鞘絵)、文字絵、嵌め絵、地口遊び、見立絵・やつし絵
(4)「おもちゃ絵づくし」(法政大学名誉教授 アン・へリング、2019年)
・「豆本」おもちゃ絵:豆本、詩歌・わらべ唄・はやり唄、「なぞなぞ」おもちゃ絵:判じ絵・いろは絵、「図鑑」おもちゃ絵:もの尽くし絵、「動物がいっぱい」のおもちゃ絵:擬人絵、「ためになる」おもちゃ絵:絵解き・教訓絵、単語図
・細工用のおもちゃ絵:千代紙、着せ替え人形・姉様人形、かつらつけ、香箱
・「名場面がジオラマで続々」おもちゃ絵の花形:組上灯篭・組上絵・立版古、回り灯篭
・「折って遊ぶ、切り抜いて使う」おもちゃ絵:折り替わり絵、折り形、節句用の絵
・双六・ボードゲームとしてのおもちゃ絵:絵双六、絵相撲、絵合わせ、福笑い
・その他のおもちゃ絵:凧絵、疱瘡絵、影絵・うつし絵
(5)「浮世絵・酒井好古堂」HP(日本最古の浮世絵専門店 酒井好古堂主人 酒井雁高)
[分類その1]
・一人で遊ぶもの:姉さま絵、着せ替え、武者絵、相撲絵、羽子板、凧(たこ)絵、子供出し車、子供祭礼、子供大名行列、子供姫様行列、火消出初め、千代紙、両面絵、面絵(めんえ)、影絵、昔はなし(こま絵)、教訓絵、文字あそび、判じ絵、江戸しりとり、はやり唄、〇〇尽くし(図鑑)、組み上げ燈籠絵(芝居舞台、書き割り)
・二人以上で遊ぶもの:かるた(骨牌)、双六
[分類その2:おもちゃ絵が作られた主要な理由で分類]
・高価な染織(絖ぬめ、絹)などに対して、子供でも楽しめるように、廉価な紙製品の浮世絵で摺り上げた。姉様人形、武者人形、
・掛軸、柱絵(はしらえ)、大巾絵(おおはば絵)。これらは一点作品の肉筆であった。これを紙製品で製作。絵師は、春信、湖龍、英山、春扇など
・舞台の組上げ燈籠(とうろう)、紙を切り抜いて、糊代に糊を貼り、組立て、舞台を再現。 これらも切り抜いてしまうので、原画は残らない。
・子供の教育。つまり全体を知る。年中行事、五節句、尽くし(づくし)、雙六
・子供一人だけでなく、二人以上で楽しめる双六、カルタなども、広い意味で、おもちゃ絵。
●権田保之助が見出したおもちゃ絵の文化的価値について
権田保之助は、おもちゃ絵の絵柄からその時代の文化や風習などを知ることができることの他に、「教訓画」から其の時代の教育の方法及び趨勢を知り、「凧絵」から其の時代の人々の心を動かした理想を知り得たり、「子供のみの遊ぶ自目的のおもちゃ絵」から其の時代の生活の縮図を見ることができることなどに、文化的価値を見出したことが分かる。おもちゃ絵の表面的なものだけでなく、その奥に潜む文化を見ようとしたのだろう。
ブログに以前に書いたが、権田保之助の社会調査、娯楽調査の姿勢には共通しているものがあるように感じる。
(以下、ブログの再掲)
権田保之助の社会調査、娯楽調査の姿勢(権田速雄氏のメモより)
父の社会調査、娯楽調査の基調を流れている考え方、姿勢を表わす一寸したエピソードがある。それは志那事変初期の頃だったと思う。
私のすぐ下の弟とは年令が近く、遊ぶのにも気が合い、行動を共にすることが多かったが、丁度その年頃に多い「物集め」に熱中していた。あらゆる雑多なものを各々得意になって蒐めていた。映画のプログラム、電車の切符、駅弁の包装紙、マッチのラベル、観光案内のチラシ、地図、箸袋等々。それこそ乱雑に手当たり次第の感があった。
或日、その様な兄弟の様子を見かねたのか、父が弟に言った。
「お前達はやたらといろいろなものを蒐めている様だが、どうだ、菓子屋の袋を蒐めてみないか。店によって印刷、デザインが違い材質も異なる。また時々変わるので、それを系統的、時間的に蒐め整理すると面白い資料になるよ。」
弟は資料になると云うことが判らず、父に問いただした。
「紙袋、菓子袋の様なものにも、その時々によって流れがあり、また店の特色が出ている。一般庶民が日常生活の中で必ず買い求めるものの中味もさる事ながら、役目を果たせば捨てられてしまう包み紙は、その中味を知る事が出来ると同様に、難しく言えば庶民生活史の一面を知ることの出来る貴重な資料になるんだよ」と説明した。
弟はもともと凝り性のところへ持ってきて、父の説明に大いに共鳴したらしく、早速オヤツの為に買ってきた菓子袋は言うに及ばず、あらゆる店の袋という袋を真っ先にその中味より先に取り上げて、スクラップブックに貼り始めた。
そのうちそれだけでは満足せず、自分で菓子屋巡りを始め出した。それも菓子を買って袋を手に入れるのではなく、直接その店の主人に頼み、菓子袋を貰い始めた。
驚いたのは店の人々で、何にするのだと問いただすと、蒐めていると云う返事しか出来ない。今ならば社会科の勉強の為だと云う事も出来るが、その頃は店の主人に話したところで狐につつまれた様な有様であっただろう。
その様にして集まったものを眺めて見ると良く判る。即ち、駄菓子屋、普通の菓子屋、高級菓子店によってその紙質、デザインが皆違う。
しかも同じ店のものを時間を追って何枚も集めてみると、丁度日本が戦争に突入した当初と段々戦争が激しくなり、物の統制、物価の高騰の影響が現れ始めた時とではその紙質、印刷が徐々にではあるが変わってくるのが良く判る。粗悪になり、特色がなくなり、仕舞にはどの店屋のものも同じ紙質、デザインの印刷になってしまった。そんなことから、弟の蒐集癖も何時しかさめてしまい、興味は他の分野に移ってしまった。
些細なものの中に民衆の生活と社会経済を見出し、その価値を生み出す手法を教えられたことは有難かった。このささやかなものの見方、考え方は、父の思考方法と興味の視点、把握方法を知る上での参考になるのではないかと思う。
●権田保之助のおもちゃ絵論から伺える娯楽の自目的・多目的論
・おもちゃ絵を「自目的の玩具絵」と「他目的の玩具絵」に分けているところに権田保之助が娯楽研究者として論じている民衆娯楽論とのつながりを感じる。つまり、自目的=民衆娯楽論、他目的=客観的存在説、再創造説。という感じである。
・そして興味深いのは、1915年(T4年9月)浮世絵研究誌「浮世絵第4号」の論文「文明問題としての玩具絵の研究(三)」に記載している以下の文書である。「他目的の玩具絵」と「自目的の玩具絵」はそれ程厳密な区別が付け得られるものではないのである。それには何れにも付かぬ中間物があって、考えようによっては他目的のものともなり、自目的のものともなるものがある。中間物や過度現象があって分類に困難を来すはただに此の玩具絵のみかは、人間一切の現象皆その選に漏れないのではあるまいか。」
権田保之助は1915年時点において、自目的も多目的も両者を認めているのである。しかも両者は混然とした一体としているのである。つまり、娯楽は自目的であり多目的でもあると言うのである。
●権田保之助が保有していたおもちゃ絵の枚数について
・権田保之助がおもちゃ絵を仕切っていた紙、おもちゃ絵を保管していたと思われる箱が今でも残っている。
おもちゃ絵を分類する仕切り紙の中に「おもちゃ絵の天才 芳藤の作品」という仕切り紙がある。芳藤(よし藤)の作品を分けて保管していたのだろう。
箱の寸法は、縦38㎝、横56㎝、高さ8㎝(内径7.5㎝)で、おもちゃ絵を2枚横に並べて入れられる。
500枚程度の紙を重ねて入れられる高さだが、おもちゃ絵とおもちゃ絵の間に保護紙を入れたと考えられるため、半数の250~300枚程度(2枚を横に並べた場合は500~600枚程度)のおもちゃ絵を保管できたと推察する。
・昭和36年に酒井好古堂にて、おもちゃ絵を7,500円で売却、浮世絵一包(おもちゃ絵含む)を3,500円で売却したと速雄氏の手帳に記録がある。
・昭和30年代のおもちゃ絵の相場は1枚10円程度なので、単純に計算して750枚以上おもちゃ絵を売却したと推察される(7,500円÷10円=750枚)。
・おもちゃ絵に関する世の中の関心が高まってきている状況、人気のよし藤のおもちゃ絵が纏まったコレクションであることから、かなり奮発して買い取ってくれたものと推察する(300~400枚のおもちゃ絵を相場の倍の値段で買い取ってくれたのかも知れない)。
[参考資料]
・浮世絵研究誌「浮世絵」全巻(酒井庄吉、浮世絵社、大正4年6月~9年9月)
・書画骨董雑誌「玩具絵の話」(大正5年6月)
・雑誌「錦絵」(大正6年9月)
・「幼児教育」(日本幼稚園協会、大正8年3月1日発行)
・酒井好古堂HP
・書籍「おもちゃ絵 江戸庶民のエスプリとデザイン」(飯沢匡、広瀬辰五郎、徳間書店)
・書籍「よし藤 子ども浮世絵」(中村光夫、富士出版)
・書籍「落穂ひろい 日本の子どもの文化をめぐる人びと」(瀬田貞二、福音館書店)
・書籍「江戸の遊び絵」(稲垣進一、東京書籍)
・書籍「江戸明治 おもちゃ絵」(上野晴朗、前川久太郎、アドファイブ東京文庫)
・書籍「遊べる浮世絵 体験版・江戸文化入門」(藤澤紫、東京書籍)
・他 おもちゃ絵に関するカタログ類など