権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

「おもちゃ絵」の話

大正8年3月1日発行の「幼児教育」(日本幼稚園協会)に、日本幼稚園協会2月常会の講話が掲載されています。
この時、権田保之助は「おもちゃ絵」の話をしています。おもちゃ絵に対する権田保之助の想いが伝わってきます。

以下、抜粋です。

・これからお話致そうと思う「おもちゃ絵」の話は、私が5、6年前から自分の趣味として、集め始めたものについて、これに何等かの意味をつけたいという考えから急にやりだしたもので、特別の方針、主義、目的のもとに集めてその結果を発表するというのではありません。

・別室に「おもちゃ絵」を陳列しておきましたが、これはもとより趣味の上から集めたにすぎぬものですから、大海の一滴にもあたらぬのですが、今日は先ず実物を見ていただくを主として、それに付け加えて少しばかりお話したいと思うのであります。

・「おもちゃ絵」は子供がもてあそぶものですから非常に手垢でよごれています。お目にかけるものの中にも紙の左右の端が手垢がつきボロボロになっているのがあります。きたないと云う感をお起しになるかもしれませんがそこをよくご了解願いたいと思います。

・私がかつて東京で有名な、おもちゃ絵蒐集の人から見せてもらったものは、玩具を主題とした絵ばかりでありました。しかし、私の考えでは、かかるものは大人が喜んで弄ぶもので、大人の一種の趣味のために存するものであると思う。私の云う「おもちゃ絵」とは、子供を主としたるもので、おもちゃ絵の享楽の主体が子供にあると云うことである。

・製作の数から云ってもその価値から云っても第一は芳藤で芳藤は実に天才です。彼によって「おもちゃ絵」は大成し、またこの人とともに亡びたのであります。

・素朴なること。子供に合う1つの味としては素朴的と云うことで、全体の構図も色も形も、また、その意味も素朴である。まわりくどい堅苦しいことは棄てて、ただ有りの儘を無邪気にあらわす、これが「おもちゃ絵」のもう1つの味であります。近代文明の中に毎日押し込められている我々はこの絵に接する時、実に一種の自由を感じ、新しさをうれしく思うのであります。

・清新なること。子供は停滞を忌むものです。子供は実に飽きやすく常に新しい刺激を要求して之に同化し共鳴するものであります。彼等には伝説もなく、古めかしい、いやな約束もありません。そこで「おもちゃ絵」では伝説とか習慣とか云うものを顧慮する必要がなく、飛行機が出来たと云えばすぐに之を絵にする。・・・大人を対象として書いている文展日本画には未だ飛行機も自動車もあらわれず、相変わらず籠に乗って旅をするところや、牛の車に乗って春の日を櫻狩に出かける人をかいているのを思えば「おもちゃ絵」はこれによってのみ味わい得る一種の鮮新の感がおこるのであります。

・自由なること。子供には一定の型にはまって物事を見ると云うことが出来ないので、有りの儘、正直なもので厭なものは厭ですし、食べたければ遠慮なくその欲を充たすことに熱中し、悲しければ思うままに泣くという風であります。そこで「おもちゃ絵」にもその構図、形、色、題などに実に自由奔放なところがあって古き型に捉われない、これは四六時中、形にのみ押し込められている我々が見て一種の面白味と軽快なる感とをおこす所以であります。

・芳藤は平凡な絵書きで、名を西村藤太郎と呼び、国芳の門下生でありました。初め広く美人画、武者絵などを書いて居りましたが明治維新の十数年前から「おもちゃ絵」を書くようになり、ここに一生面を開いたのであります。その絵は質においても量においても、他の人のとても及ばぬところです。浅草に住み純粋の江戸っ子でした。彼の生活の一面をあらわす逸話が残って居ります。それはある時、彼は朝湯に出かけ褞袍(どてら)をひっかけて湯から出てくると、獅子舞が太鼓をたたいて行くそのあとから大勢の子供がついて行くのに会いました彼は手拭を肩にかけて、そのまま何処までも之のあとをついて行った。家の人はどうしたことかと不審に思っていると、間の抜けた様な顔をして塵だらけになって、ひょっこり家に帰ってきたと云うことですが、これは彼がいかに子供の心に同感し、子供とともに生活したかを語るものでしょう。実際彼の絵を見ていると子供に対する無限の共鳴同感のあふれているのを感じるのであります。今日、一人でもかかる絵書きがあればよいと思う。芳藤は難しい教育上の意見、主義は知らなかった。しかも彼は、子供とともに喜び、子供の生活の中に深く生きていこうとする哲学を知っていた。彼には児童心理学はなかったが実際体得した同感の心理学があったのです。