権田保之助ん家

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帰山教正と権田保之助

権田保之助は、1939年(昭和14年)10月に発行された日本映画 第4巻第10号「映画法記念10月特別号」にて「映画劇出生陣痛期」を寄稿しています。

日本映画「映画法記念10月特別号」

 

その中で現代映画人にとってバイブルともいえる「活動写真劇の創作と撮影法」とその著者 帰山教正(かえりやまのりまさ)氏が何度も登場しているのが興味深い。というよりも、これは映画劇誕生にまつわる帰山教正氏のエピソードそのものです(驚き)。

以下、「映画劇出生陣痛期」の抜粋。

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・日本映画史における映画劇の誕生のための陣痛は随分長く続いたものだ。この陣痛期は大正4,5年頃に始まって9年までも続いたものであって、その面倒な産婆役を勤めたのがわが帰山教正君だったのだ。
・この間、帰山君に会った時にも話がでたが、一体「映画」という言葉が今日一般に使われているような意味で使われ出したのはそもそも何時頃からだったろうかと言うと、僕らが普通に考えているようなそんなに古いことではないようだ。
・日本における映画劇の創成に最も示唆に富んだ刺激を与え、没すべからざる原動力となったものは、帰山君が大正6年の夏に出版した「活動写真劇の創作と撮影法」だったと言える。
・帰山君をしてこの憤慨を一層大ならしめたものは、当時の外国映画が比較にならぬ程に立派な事であった。
・今でもなおその頃の映画ファンに懐かしい思い出となっている青鳥映画がどれ程帰山君の心を打ったことだろう。
・そこでこれらの鬱憤が遂に爆発したのが帰山君のあの著書だった。しかしこの帰山君の主張は当時中々一般の耳には入らなかった。
・ところがここに帰山君達に時節到来したのである。当時日活を向こうに廻して目覚ましい争覇戦を戦っていた天活は業界の新人によって時代に卓でようとして、帰山君に目を付け、その外国部員に招聘した。帰山君はここに青山杉作、近藤伊代吉、村田實等と共に映画芸術協会を設立して、いよいよ積年の宿題を成就しようと思い立った。
大正7年の夏クランクを始めた。映画は「生の輝き」と「深山の乙女」の2つ。花柳はるみが我が国最初の映画女優として出演したことが特に注意されてよい。
・この映画女優が初めて出演し、初めてスポークン・タイトルを使って、外国映画と同じ式に説明された純活動写真劇なるものはどんな反響を当時の映画界に与えただろうか?
 世間はただポーとして狐につままれたような食い足りないような気持で、黙って引き下がっているのだった。そして「活動画法」という雑誌のある号の投書欄の隅っこに「深山の乙女はこれまでの様々な新派物よりも余程すぐれています」という6号活字の評言が出ただけで終わった。あまりにも無残な幻滅だ。
・けれど帰山君のこの苦心はやがて大正9年 松竹キネマが創立され、小山内薫氏を所長とする松竹キネマ研究所が設立されて映画劇がようやく一本立ちになるようになったことで報いられたのだった。

・そしてわが帰山君は?・・・昨夜「日本映画」の会合の後を君と2人並んで日比谷公園の傍を静かに歩いた。陰暦19日の月が中天に懸かって、映画技術者協会の健全なる発達を熱心に考えている帰山君の広い額を照らした。

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本文中に「わが帰山(教正)君」という記載が2か所あります。

帰山教正と権田保之助はきっと親しい映画仲間だったのでしょう。