権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

中野に家を建てた権田保之助

中野に家を建てた権田保之助

速雄氏のメモ(昭和58年6月27日)に以下の記載があります。

 

中野の土地を選び家を建てた理由

東京外語大の後輩 田中氏とは親しい間柄であったと思われる。
まず墓地の件がある。
祖父 伊三郎が上京後、妻のために墓地を求めた寺が区分整理か何かで移転、田舎に引込めることになり、差し当たり墓地の移転先の問題起こる。
それで父が田中氏に相談した(田中氏の兄が宝仙寺の住職)。
田中氏は住職と相談。住職は墓地を提供してくれたので移した。
その頃か、自分も家をどこか郊外に建てたい意向が父母の間に起こり、その場所を探すことについても田中氏に相談したのではないかと思う。
宝仙寺の檀家の地主に口をきいてもらい、地主の了承を得て、約300坪の土地を借り、建築したのではないか。
以上が中野を選び家を建てた理由ではないかと推測する。

 

その頃の中野
大正10年11月、その頃は小石川の借家住まいであったが、郊外の中野に地所を借りて家を建てることになった。
借家住まいが何かと手狭で、子供のためにも郊外を選んだ。
その頃の中野は大変ヘンピな郊村であった。
新宿から西武電車が荻窪に通じていた。鍋屋横丁で降り、歩いて5~6分のところにあった。十貫坂を下る途中を左に入ったところに約300坪の土地を地主の秋元さんから借り、平屋建40坪位の日本家屋を建てた。
著書の印税で建てたものなので安普シンの家であった。
しかし、後から建て増した書斎だけは大いに気をつかったようだ。
珍しくも写真の暗室を作った。
その頃の中野は本当に田舎であった。新宿がやっと繁華街の様相を呈し始めた頃で、西武電車も杉並車庫までが複線でそれから先は単線となり、線路の間には草が生えていた。
自動車は数える程しか走らず、後に市営バスが通るようになった。
中野駅から鍋屋横丁を通り、方南町代田橋を通って渋谷まで行く東横バスは大分後になって通るようになったが、最初の頃は乗合バスではなく、乗合タクシーだったことを覚えている。
震災後に市内から移り住んで来る様になり、家も建てこんできたが、まだまだのどかな土地であった。
そういう意味では先見の明があったのかもしれない。

 

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                権田邸の設計図面

権田保之助の墓

権田保之助の墓は中野の宝仙寺にあり、墓石には「權田氏之墓」と彫ってあります。
なぜ「氏」となっているのか、理由は分かりません。
新島の墓石は昔、個人個人に建てられ「〇〇氏之墓」と彫ってあるので、権田保之助個人のために造られた墓石だったのでしょうか。

また、権田保之助の墓の真向かいには、保之助の子供達に英語を教えていた青山家の墓があります。
向かい合った墓石を見ていると、今でも2人が話をしているように感じます。

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        權田保之助の墓(中野宝仙寺

権田保之助のおもちゃ絵に出合いました

権田保之助の収集したおもちゃ絵に出合いました

10月6日、茅ヶ崎市美術館で開催している「江戸の遊び絵づくし」展を観てきました。珍しい作品も多く、展示も工夫されていてとても面白かったです。

茅ヶ崎市美術館ホームページ] 
http://www.chigasaki-museum.jp/ 

「組上絵を組み上げてみて!」というワークショップにも参加しました。
切り抜いて組み立てる浮世絵「組上絵」を使って、立体的な作品を作りました。

実際に組み立てて見ると意外と難しく、当時の子供の想像力の豊かさと手先の器用さを感じました。

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改良郵便箱組上(完成品)

講師の城戸さんは、権田保之助の次男速雄氏に工房で銅版画を教えていた先生です。
ワークショップで使った組上絵について城戸さんに伺ったところ、権田保之助が収集したもので、権田保之助の死後、酒井好古堂で買い取ってもらえなかったため価値がないとして速雄氏が捨てようとしていたものを、速雄氏の奥さまが譲り受け、その後箪笥の着物の下に保管されていたものだそうです。保管していることをすっかり忘れていましたが、平成24年頃に自宅の片付けをしていて偶然に見つかったようです。その後、速雄氏が城戸さんへ譲りました。
権田保之助が収集したおもちゃ絵に出会えました。驚きです!

 

ワークショップの帰りに工房で、実物のおもちゃ絵を見せていただきました。色鮮やかで、大切に保管されていた様子が伺えます。
明治中期から大正初期に発行されたもので、着せ替え絵、組上絵、千代紙など20数枚ありました。半数近くは明治6年から明治政府主導で発行された「教育おもちゃ絵」でした。

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新案少女きせかへ

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流行飛行機の組立て

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教育水族館

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新ぱん千代紙

 

明治後期からおもちゃ絵を収集・研究していた権田保之助

権田保之助は書生時代(明治後期~大正初期)、特に芳藤のおもちゃ絵を中心に収集して研究していたと次男の速雄氏から伺いました。
明治後期は露店で多数のおもちゃ絵が1枚数十銭で売られていたようですが、大正6年頃になると浮世絵や錦絵が流行して研究や収集する人も多くなりつつあり、おもちゃ絵も一桁値段が上がったようです。(錦絵第5号「7月の日誌より」、錦絵第6号「おもちゃ絵に就いて」権田保之助)

 

雑誌「浮世絵」などへ論文投稿していた権田保之助

酒井好古堂発行の雑誌「浮世絵」などに大正4年(1915年)から9回、玩具絵(おもちゃ絵)に関する論文を投稿しています。
そして大正6年9月刊の「錦絵」に投稿した「おもちゃ絵に就いて」にて、おもちゃ絵とは子供を享楽の主体とする版画であると定義し、以下のように分類しています。

 

●「おもちゃ絵」の中堅
1.現相界を描いたもの
(イ)子供の世界を写し出したもの
   「当世子供遊び」なぞいう題での男の児、女の児の色々な遊び。
(ロ)大人の世界を写し出したもの
   「大名行列」「町火消」「祭礼」「台所道具」「お稽古」など。
(ハ)大人の世界を子供にて表したもの
   子供の火消しや大名や山車のお囃しなど。
(ニ)人間の実生活を動物にて表したもの
   「猫のお湯屋」「獣物商人尽し」など。
(ホ)新興の文明現象を写し出したもの
   「汽車」「鉄道馬車」「人力車」、近頃では「飛行機」「自動車」など。
(ヘ)「何々尽し」と云って同種類のものを列挙したもの
   「虫づくし」「獣物づくし」「名馬尽し」「樹木尽し」「面尽し」など。

2.仮相界を描いたもの
(イ)子供の理想界を表したもの
   「武者絵」「相撲絵」「あねさま絵」「役者絵」。
(ロ)童話を表したもの
   桃太郎、カチカチ山、猿蟹合戦など。
(ハ)芝居を表したもの
   役者を皆な子供にしたり、動物で表したりなど。
(ニ)全然絵師の空想を表したもの
   「ほうずき遊び」など。

 

●第二次的の「おもちゃ絵」
(1)実用的意味が変じて「おもちゃ絵」となったもの
   疱瘡絵など。
(2)凧絵
   凧に模した絵。
(3)教訓絵
   子供に人倫五常を教えようという意味の絵。
(4)それを細工なぞして楽しむもの
   「千代紙」「切組絵」「切組み細工」「切組み燈籠」など。
(5)絵を応用した玩具
   「十六むさし」「目かつら」「福笑い」「双六」「かげ絵」「判じ絵」など。
(6)俚謡を絵に描いたもの
   「ちんわん節」など。
(7)辻占絵
   辻占に出ている絵。

 

これを見ると、権田保之助は多種類のおもちゃ絵を幅広く収集して研究していた様子が伺えます。

 

「芳藤(よし藤)」を高く評価していた権田保之助

権田保之助は絵師「芳藤(よし藤)」を高く評価していたことが以下の記載から伺えます。
「何と云っても芳藤が一番偉い。他の筆者等が子供の享楽を忘れて、大人が鑑賞して味ふべきものを描く傾向が有るにも係らず、芳藤は常に子供の心と其生活を徹底せしめて描いたので、玩具絵(おもちゃ絵)の独歩と云う事が出来る。」
(書画骨董雑誌 大正5年6月)

 

展覧会におもちゃ絵を出品していた権田保之助

権田保之助は、大正7年(1918年)2月5日から20日に白木屋呉服店(現在の東急日本橋店)で開催された「おもちゃ絵の展覧会」におもちゃ絵を出品しています。当時の「おもちゃ絵陳列品目録」によると、巌谷小波、橋田素山、権田保之助の3氏が24点を、三代目いせ辰が80点を陳列しているようです。
明らかに総括的な意味での「おもちゃ絵」ということばが用いられたのはこの時が初めてで、それ以前は「おもちゃ絵」ではなく、絵草紙、または一枚摺りの名で通用していたようです。(「おもちゃ絵 江戸庶民のエスプリとデザイン」(飯沢匡、広瀬辰五郎 著、徳間書店刊))

 

日本浮世絵博物館に所蔵されている権田保之助が収集したおもちゃ絵

権田保之助が収集したおもちゃ絵は、権田保之助の死後、戦後の混乱期で生活に困り、昭和36年(1961年)に酒井好古堂で買い取っていただきました。
昭和36年の速雄氏の手帳に
・2/13(月)浮世絵複製を酒井好古堂にて1,000円で売却
・2/14(火)おもちゃ絵を酒井好古堂に持参。2/16(木)7,500円で売却
・3/3(金)浮世絵一包(おもちゃ絵含む)を酒井好古堂へ持参。3/4(土)3,500円で売却
と記載されています。
当時のサラリーマン平均月収が4万円程度です。一部の収集家を除くと、おもちゃ絵は殆ど一般に関心が無かった時代ですので、売った枚数は不明ですがかなりの額で買い取っていただいたものと考えます。

現在、松本にある日本浮世絵博物館に所蔵されています。

 

[おもちゃ絵に関する情報(酒井好古堂ホームページより)]
http://www.ukiyo-e.co.jp/40565/2019/10/

[おもちゃ絵の例(国立国会図書館デジタルコレクション)]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304735?tocOpened=1

権田保之助に関する書籍が出版

権田保之助に関する書籍が出版


2019年8月29日、「近代社会教育における権田保之助研究」という書籍が出版されました。
著者は権田保之助の研究者である早稲田大学の坂内夏子教授です。
権田保之助の著作集、研究誌は既に出版されましたが、権田保之助について書かれた書籍の出版は初めてではないでしょうか。
とても嬉しいです。権田速雄氏も待ち望んでいました。

 

権田保之助の想いが伝わってきます
民衆娯楽についての権田保之助の思想をひととおり知ることができ、また「娯楽は生産の奴婢に非ず、生産こそ創造の奴僕である(人間は生産のために生きるのではない。人生のための生産こそが本来あるべきものだ。人間は生きていくためには労働をしなければならない。その一方で人間は生活を楽しむことを忘れないものである)」という権田保之助の想いが伝わってきます。

新島、式根島を愛した権田保之助

権田保之助の妻は伊豆七島の新島出身

権田保之助の妻、前田タンは伊豆七島の新島出身で、実家は代々、酒、味噌、醤油等の醸造業をやっていて伊豆七島全域に出荷していた。
前田タンは上京し女学校に通い、その女学校での親友が権田保之助の姪であったことから、保之助とタンの交際が始まり、大正6年11月28日に結婚した。

 

権田保之助は新島、式根島をこよなく愛した

権田保之助は新島、式根島をこよなく愛し、島の人達からも大分頼りにされたらしい。何度も島を訪れ、「新島の盆踊」、「伊豆の新島」、「新島の土地と家」等の民俗学的エッセーを雑誌に発表している。
島の青年団から講演を依頼され、「新島よ!汝を何処に?」と題し、島の将来の産業開発について青年は広く新しい視野を持たなければならないと論じている。

 

昭和初期、式根島の雅湯付近に慈恵医大式根島診療所が開設された。新島で流行った胸の病が式根島で広まらないように、徹底した医療体制が敷かれたのでしょうか。
式根島開島百年史に「隣島からも患者が千客万来の盛況を呈する、式根島には過ぎた医療機関が開設された」と記載されている。
当時の島の人の力では実現できるものではない。島を愛した権田保之助の口利きがあったのでしょうか。

 

島の豊かな自然、独特の風習、素朴な人々

権田速雄氏から生前、「新島、式根島は良いところだから行くといい。」、「行ったら母方のお墓参りをしてほしい。」と伺っていたので、先日、新島、式根島を訪問し、前田家のダントウ(お墓)参りをしました。
ダントウは、墓地全体に白砂が敷かれていて、とてもきれいで、線香を白砂へ直接立てるのが印象的でした。
島の豊かな自然、ダントウ・さきばたなど独特の風習、素朴な島の人々。
権田保之助が愛した新島、式根島は魅力的な島でした。

月刊誌「日本映画」へ投稿していた権田保之助

権田保之助の投稿

権田保之助は、月刊誌「日本映画 第四巻 第十號」(昭和14年10月1日発行)で「映画四十年史」を特集した際、「映画劇出生陣痛期」を投稿しています。
これによると、映画劇という言葉が使われる前は「活動写真劇」という言葉が使われていましたが、映画という言葉は大正の初め頃からチラホラ現れてはいるものの、その意味は極めて狭いもので、今日のような内容を包括したものではなかったようです。そして、映画とか映画劇とかと大っぴらに唱え出されるようになったのは大正11年頃、本当は震災後だと云っていいとのことです。
そして当時は、活動写真は芝居の代用物で、芝居の見られない人々に安直に手っ取り早く芝居の匂いを嗅がせてやろうとするのが主眼だったようです。

 

武者小路実篤も投稿

武者小路実篤は「日本映画 第四巻 第十三號」(昭和14年12月1日発行)の「映画の長短」という投稿で、芝居と比較して映画の特色を次のように言っています。
・安く見られる。
・時間も短く、気楽に入れる。
・何処でも同じものが見られる。

 

柳田國男も投稿

柳田國男は「日本映画 第四巻 第十三號」の「民族藝術と文化映画」という投稿で、民族藝術をそのままの形にして保存したいが、民族藝術のニュアンスというか、カラーというか、舞の前に身を潔め、然る後に開始するというような、その森厳な気持ちがどうしても、現在の日本の映画技術では出ないと言っています。

大原社会問題研究所100周年

本日、大原社会問題研究所100周年記念シンポジウムが開催


権田保之助が研究員として勤務した大原社会問題研究所(以下、大原社研)は、1919(大正8)年2月9日、岡山県倉敷の大原孫三郎によって大阪天王寺に創立されました。
権田保之助は大原社研で、高野岩三郎主導のもと「月島調査」を行い、また「浅草調査」も行いました。

本日の公開シンポジウムでは、大原社研所長であった二村一夫氏の記念講演があり、大原社研の100年について語られました。

 

整理が進んでいる権田保之助の未公表資料

記念レセプションでは、権田速雄氏が大原社研へ寄贈した権田保之助の膨大な未公表資料の整理が進んでいること、未公表資料はとても貴重な資料であることを関係者から伺うことができました。
今年1月1日に亡くなった権田速雄氏がこの話を聞いたら、さぞかし喜んだことでしょう。

 

大原社会問題研究所
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/

[大原社研の昔と今(二村一夫)]
http://nimura-laborhistory.jp/kenkeigt.htm

[大原社研こぼれ話(二村一夫)]
http://nimura-laborhistory.jp/clmnindx.htm

浅草を愛していた權田保之助

晩年、「浅草記」を愛読していた權田保之助

生前、権田速雄氏は以下のメモを残しています。

[以下、速雄氏のメモより]
戦中(晩年)、父の保之助が愛読していた書物がある。
「浅草記」 久保田万太郎著 生活社 昭和一八年七月刊
「寄席風俗」 正岡容著 三杏書院 昭和一八年一〇月刊
の2冊である。
戦時中よく二人の本が出版されたと思う程、時代にそぐわない味のある本である。
「浅草記」の中で万太郎が引用した高村光太郎の詩「米久の晩餐」には赤線が引いてあった。

以下、「米久の晩餐」抜粋。

・・・・・・・・・・・・・
まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお座んなさい
おきんさん、時計下のお会計よ・・・・
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を・・・・
 おいこら酒はまだか、酒、酒・・・・
 米久へ来てそんなに威張つても駄目よ・・・・
 まだ、づぶ、わかいの・・・・
 ほら あすこへ来てゐるのが何とかいふ社会主義の女、随分おとなしいのよ・・・・
 ところで棟梁、あつしの方の野郎のことも・・・・
 それやおれも知つてゐる、おれも知つてゐるがまあ待て・・・・
 かんばんは何時・・・・
 十一時半よ、まあごゆつくりなさい、米久はいそぐところぢやありません
 きびきびと暑いね、汗びつしより・・・・
 あなた何、お愛想、お一人前の玉にビールの、一円三十五銭・・・・
 おつと大違い、一本こんな処にかくれてゐましたね、一円と八十銭・・・・
 まあすみません・・・・ はあい、およびはどちら・・・・

 八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
・・・・・・・・・・・・・

懐古の情にさそわれたのではないかと思う。
この詩は最早や父の世界ではないのか。「民衆娯楽」と云う味気ない文字と議論は、この中に全部要約されている様だ。限りない共感と郷愁をこめて読んだことだろうと思う。
この本にはまだ他に赤線が引いてある。