権田保之助ん家

権田保之助に関する情報を掲載

月刊誌「日本映画」へ投稿していた権田保之助

権田保之助の投稿

権田保之助は、月刊誌「日本映画 第四巻 第十號」(昭和14年10月1日発行)で「映画四十年史」を特集した際、「映画劇出生陣痛期」を投稿しています。
これによると、映画劇という言葉が使われる前は「活動写真劇」という言葉が使われていましたが、映画という言葉は大正の初め頃からチラホラ現れてはいるものの、その意味は極めて狭いもので、今日のような内容を包括したものではなかったようです。そして、映画とか映画劇とかと大っぴらに唱え出されるようになったのは大正11年頃、本当は震災後だと云っていいとのことです。
そして当時は、活動写真は芝居の代用物で、芝居の見られない人々に安直に手っ取り早く芝居の匂いを嗅がせてやろうとするのが主眼だったようです。

 

武者小路実篤も投稿

武者小路実篤は「日本映画 第四巻 第十三號」(昭和14年12月1日発行)の「映画の長短」という投稿で、芝居と比較して映画の特色を次のように言っています。
・安く見られる。
・時間も短く、気楽に入れる。
・何処でも同じものが見られる。

 

柳田國男も投稿

柳田國男は「日本映画 第四巻 第十三號」の「民族藝術と文化映画」という投稿で、民族藝術をそのままの形にして保存したいが、民族藝術のニュアンスというか、カラーというか、舞の前に身を潔め、然る後に開始するというような、その森厳な気持ちがどうしても、現在の日本の映画技術では出ないと言っています。