権田保之助ん家

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著書の解説で若き日の自分を語る権田保之助

瑞西」に本文と同量の解説を書いた

第二次大戦後の昭和22年(1947年)、大原社会問題研究所は「日本社会問題名著選」と銘打ったシリーズの発刊を行いました。
そのシリーズの中に明治37年に発行された安部磯雄著「瑞西(スイス)」があります。
権田保之助は、早稲田中学の恩師である安部先生の「瑞西」に本文と同量の解説を書き(本文100ページ、解説93ページ)、そこで安部先生の思い出を語ると共に若き日の自分を語っています。
解説の末尾に、安部先生が英訳の資本論を翻訳されながら歯痒い感がすると云う話を聞き、「ドイツ語で資本論を読む」と云う野心が勃然と沸き起り東京外国語学校独逸語科へ入学するきっかけになったと書いています。

 

そこには権田保之助の若き日の様子が書かれている

次男の権田速雄氏いわく、
「そこには私達には話したことのない父の若き日の様子が書かれている。これは自叙伝のプロローグだ、是非エピローグ迄書いて欲しいと頼んだ。
すると父は笑いながら「その内書くよ」と言ったが結局自叙伝なるものは書かれずじまいであった。
仕事の多忙と健康状態の為めばかりでなく、父がその「続き」を書かなかった気持ちは今判るような気がする。
敗戦直後の百家争鳴の中に於いて、己の思想の変遷を語り、学問を語り、交友関係を語ることは、父特有の反骨精神から、もはや風化した様な若き日のシュツルム・ウント・ドラング時代を安部先生の「解説」の中に書くことが精一杯であり、それから以降を赤裸々に書くことに、又客観的に書くことにためらいがあったのではないか。好むと好まざるとにかかわらず余りにも時代を意識しすぎたが故に。」
(権田保之助研究 昭和57年(1982年))

 

また、権田保之助が若き日の自分を戦後になって書いた心境について、権田速雄氏は以下のメモを残しています。

新しい時代到来に対して、もはや何を書いても良い時代になった。
制約を受ける事もない、また戦中のニガイ思いもこめて。
一挙に自分の若き日の行動を書く事もできる心境になったのではなかろうか。
また、自己の思想信条の基本を表明しておきたかったのかもしれない。
「スイス」の総論は書けなかった。
NHK勤務となり多忙を極める。
恩師、高野先生没 →失意
NHK辞職 →病気勝ちにて意の如くならず、生活面も苦しくなる。
(辞書、ドイツ文法書等 期待できなくなった)
晩年、もはや回想録を書く意欲と元気がなくなったのではないかと思う。

 

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